ベッドの中で意識が起き上がる。目を閉じていると、ここが何処だか分からない。音を探ってみる。誰かが歩く音がする。…
この世を去った魂を思い遣る心を失った人々
2026年4月30日。北海道旭川市で勤務先の動物園内の施設に妻の遺体を運び込み、焼却するなどしたとして、死体損…
雨が降り出した月曜日の妄想日記
SNSを眺めてみると、どうも違和感がある。先に言っておこうか。
日本政府とは、日本人から労働と金銭を提供させ、それをDSに分配する組織である。基本的な国の方針は日米合同委員会によって、米軍から官僚に伝えられる。これは指示である。この指示に従わない政治家は干される、スキャンダルを暴かれる、或いは殺される。日本政府は日本人のための政治をすることはない。絶対にない。
早く抱いてという詩を読んで聞いて思うこと
さて、冒頭の詩。「早く抱いて」は自我が語る言葉だと感じる。自我が真我に囁くなめらかで繊細な誘惑であり、自我の消え去るときの静寂で終わる一篇の詩であろう。ただし、これは、わたしの感じ方であって、作詞された下田逸郎さんがそういう意図で紡がれたものではないかも知れない。しかし、芸術とはそうしたものである。作者の意図しない見方を大勢の人がしてしまう。そこに一つの普遍性が生まれ、時代を超えて、人々の心に何億種もの振動を与えるのだろうと思う。
共感の上に成立するゴリラの共存社会 後編
お互いが、お互いの尊厳というものをきちんと理解し合う事が重要であって、「子どもだから」あるいは「ご老人だから」身体的な脳力がそこに反映されるんじゃなくて、お互いが、平等で対等で、分かり合える存在であるという事を常に意識しながら、関係作りをしていかなくちゃいけない、ということですね。それは、ゴリラに学べる点だと思いますね、
共感の上に成立するゴリラの共存社会 前編
ゴリラの社会っていうのは、双方がメンツを保つことが非常に重要なのね。勝ち負けを決めない。それを、人間は誤解しているわけだ。我々、人間ていうのはね、やっぱり、トラブルがあって、両方が力をぶつかり合わせると、勝ち負けを決めようとするでしょ。ゴリラって、そうでなくて、勝ち負けをあえて決めずに、お互いがメンツを大事にして引き分ける。
永い夢を見続けてきたけれど
思えば、永い夢を見続けてきた。
知らないことは何でも体験してみよう、それが幼い頃に決めた思いだったが、その道は思った以上に苦しいものだった。承認欲求など持ち合わせていないが、わたしが必要でない世界ができあがるのならば、わたしは夢をとじるつもりだ。
夢でも現実でもいい。なんとでも名前を付けるがいい。ただし、それらはすべてわたしなのです。
現実など存在しないのではないか。すべてはわたしの世界であり、わたしの体験であり、わたしの魂なのだ。
いろいろな女性と巡り合ってきたが、今思う。「また会おうね」と。
月曜日に気づいた背中のひっかき傷
わたしは、見ている。
それ以上でもそれ以下でもない。
見ているというのは一種の体験だろうと思う。
何もしないという意味ではない。
知らないことは何でも試してみる。
言いたいことがあれば、何処であろうが、相手が誰であろうが、言う。
そんな「氣」は伝わるのだろう。
わたしに男友達はいない。
でも、わたしは見ている存在だ。