女性は自己肯定感を作るのが上手だ。私などは、自分の写真を誰にも撮らせなかったほど、自分を見るのが嫌いな人間だが、女性は、毎日のように鏡を見るらしい。わたしには、信じられないことだ。振り返れば、私はどこかで自己否定をし続けている。もしくは、この世界を容認できないでいる。その現れが、写真を撮らせない、鏡を見ない、という行動になっているわけだ。
破裂したくなる冬のにきに億千万の嘘を書ききれない
世の中は億千万の嘘で成り立っている。それらは全て、わたし達自身がこの世を産み出していることを忘却させるためにある。神を外に求めるなかれ。偶像神とは、わたし達がある意味での創造主であることを隠すための道具でしかない。わたしは體ではない。わたしは意識であり、観ている者であり、創造する者である。
突然床下から現れた仔猫はもういない
毎日、ミルクを与える日々が始まった。
わたしは猫など飼ったことがない。仔猫は日々育っていく。
だが、わたしの疲労は溜まっていく。里親を探した。だが、仔猫への情が心の中で芽生えていく。
人にとって自尊心ほど厄介なものはない
人にとって自尊心ほど厄介なものはない。李徴は、才ある若者だった。潔くないことを恥とした。しかし、心に猛獣を飼っていた。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心。 そして李徴は自ら虎と化した。 虎と化すことを潔しとしたのか、それしか道はなかったのか・・。わたしは虎と化した李徴と会ってみたい。 そう思うのだ。
緊縛というものが成立されるためには、わたしと他者が波動を重なり合わせていなくてはならない。
「一番猥褻なものはなにか。それは縛られた女の体だ」そして三島はこう続ける。
「他者とは意思を持った主体であり、相手が意思を封鎖されている、相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が最もエロチシズムに訴える。」この三島の言葉は浅い。
ヒンドゥーの女神が手のひらで踊った夢
指先から小さな白い蛇が這ってきて女神に変身した。 女神は、手のひらから1cm程浮いたところで、見事な舞いを見せた。 ヒンドゥーの女神のようである。 わたしの手のひらで踊ったのは間違いなく彼女である。
雨、春に降る、音もなく降る
「10秒で判断と行動を済ませることが出来る課題があるとする。 そんな課題には20秒、いや、1分以上時間をかける方がいい。半日かけてもいい。 そうすれば、自神が介在することも出来るし、もしかしたら、妖精まで舞い降りてくるかも知れない。 あらゆることに、適切な「間」は必要なのだ。」
忘却は何物にも勝る力であると感じる
「自己愛がなければ隣人愛を育めない。 自己愛が強すぎると反発して自分を嫌いな人をとことん叩く。 自己愛があまりにもないと自分を愛してくれる人を突き放してしまう。 」
この世はわたしを映し出している
昨年秋まで、障害を持った男性が、杖をつきながら2頭の犬を散歩させていた。
明らかに保健所に持ち込まれたれた年老いた犬である。この2頭の犬は、男性の横をゆっくりと歩きながら、時折男性の表情を見上げていた。そして、決して男性の前を歩くことはなかった。