早く抱いてという詩を読んで聞いて思うこと

さて、冒頭の詩。「早く抱いて」は自我が語る言葉だと感じる。自我が真我に囁くなめらかで繊細な誘惑であり、自我の消え去るときの静寂で終わる一篇の詩であろう。ただし、これは、わたしの感じ方であって、作詞された下田逸郎さんがそういう意図で紡がれたものではないかも知れない。しかし、芸術とはそうしたものである。作者の意図しない見方を大勢の人がしてしまう。そこに一つの普遍性が生まれ、時代を超えて、人々の心に何億種もの振動を与えるのだろうと思う。

幻想の春の夜に綴る流れる心の縞模様

無農薬、無肥料のうえに、雑草も引かない。植物は植物と話をしている。彼らの好きにしたらいい。このえんどう豆は強烈に美味しい。
いうならば、微生物の命の香りと味を感じるのである。

町内の街灯がLEDに交換されてから、夜間に虫が飛ばなくなった。
これも、幻想であるが、寂しいことに変わりはない。

現実は本当に現実であるのか、考えてみたことがありますか?

現実とはなんですか?
それは確固とした形で存在するものですか?
あなたが自我を開放して真我に至ったとき、現実は大きく変化するのではないでしょうか?
現実はあなたが作っているのですから。

わたしたちは、顕在意識を捨て去り、潜在意識に紛れ込んだ欠片を上書きし、真我を圧迫している電圧を解放しなければならない。

世界を知りたければ真我を観察すればいい。真我を知りたければ世界を観察すればいい。ただし、真我とは電磁体である。