3月13日 水曜日
病院に見舞いに行く。
誰の部屋に入ったのか分からなかった。
それほど、病人の相は変わっていた。

彼は最初、わたしが誰なのか分からなかった。病院の入り口でつけさせられたマスクを外すと、わたしのことを認識できたようだったが、感情には何の変化もなかった。いくつか言葉を投げかけてみるが、モルヒネが効いているのか、彼の言う言葉は聞き取れない。
彼の妻は冷蔵庫から切り分けたフルーツの入ったいくつかの容器を出して彼に食べさせる。しかし、彼はなかなかそれを飲み込めない。

部屋の中は異様に温度が高い。彼の体温が低いことが慮られる。
窓のカーテンを少し開けると、古い路地が見える。
セーラー服を着た女子高生が歩く端正な後ろ姿が見えた。

突然に彼は大きな咳をした。
誤嚥という言葉が私の神経を遡る。
彼の妻はしきりにここ数日の彼の体調の変化をわたしに語りかけるけれど、わたしの心には響かない。目の前のベッドに横たわっているのは誰なんだ。わたしと一つ屋根の下で暮らした昔のことが断片的に頭を横切るけれど、その彼と、口に果物をいつまでも入れて果汁を吸い込んでいる彼が、何としても重ならない。ひとしきり果汁を吸い尽くす間も、それをなんとか飲み込んだ後も、彼はテレビの画面を眺めている。いつの間にこんな姿に身を変えたのか。こんなになる前にわたしに1通のメールを送ることはできただろうに。そこには、五体満足でないわたしへの遠慮があったのか、それとも自ら生き続けることを放棄したのか。わたしには稚拙な憶測しかできない。

痛みを和らげるために処方されるモルヒネや鎮静剤は少しずつ呼吸を心臓を落としていく。
わたしが見ていたのは、暗黙の合意の上での安楽死の道程ではないのか。

面会時間は30分と決められている。
30分の間にわたしは彼にいくらかの精気を吸い取られた。
しかし、それは肉体を保つにはあまりにも少なすぎる量だった。
あと3日で尽きる。わたしはそう感じながら病室を出た。

その夜から閃輝暗点が始まった。
芥川龍之介の「歯車」である。
閃輝暗点は、キラキラした金属のような輝きが様々な色になって視界の中に見えるのだが、金曜日の夜になってわたしの視界に現れた閃輝暗点は、なんと、白と黒の2色の歯車だった・・。

3月16日 土曜日
朝からショートメールが届く。
「今 逝きました」の文字。

同日、午後11時
インターホンが鳴る。
画面を見ると赤い閃光。
玄関に出てみると誰もいない。
彼が押したのである。
彼は昨年の夏と、今夜、2度わたしの家のインターホンを押したのだ。

彼はわたしのたった一人の兄である。
ありがとう。
そして、ありがとう。

彼は若い頃バンドマンだった。
陽水の「月が笑う」
一緒に歌ってみたかったな。

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