緊縛というものが成立されるためには、わたしと他者が波動を重なり合わせていなくてはならない。

三島由紀夫がサルトルの「存在と無」を引用したことがある。

「一番猥褻なものはなにか。それは縛られた女の体だ」

そして三島はこう続ける。
「他者とは意思を持った主体であり、相手が意思を封鎖されている、相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が最もエロチシズムに訴える。」

この三島の言葉は浅い。
浅すぎる。
ただの理屈にしか過ぎない。

三島は理論武装する。
三島は肉体武装する。
実は、三島の本質、三島の種は、ただ「母親に褒められたい」というところに帰結する。これはわたしの感じるところでしか無いが・・。


緊縛とはエロチシズムに留まらず、無私の愛情であり、ある種の恋情でもある。その恋情は、他者にも注がれ、なおかつ自分自身にも流れ込むことがある。洗脳から開放されたい欲求が己にも存在するからだ。
 



雪村春樹氏は言う。
「風呂上りの女、生乾きの髪の毛の感触や匂いをかきながら、後ろから縛る。細いうなじ、白い襟足や背中を眺めながら…若いのに昭和の色香をただよわせる情の深さ…こんな女とは毎日、一緒に風呂に入りたいもんやなぁ。」

女性の美はその所作に宿っている。


「雪村春樹氏の愛情」
http://bottomx.shibugaki.jp/?p=93

今更、緊縛という行為について説明する気にはなれないが、緊縛というものが成立するためには、心よりももっと深いところで、わたしと他者が波動を重なり合わせていなくてはならない。

そのためには言葉は無い方がいい。波動を感じるためには、他者の履歴を知ることなど却って邪魔になりかねない。

そして、それは、洗脳や社会的仮面を破壊する一種の共同行為であるとも言えるかも知れない。

電話のベルが鳴る。電話のベルが鳴る。

いつのことだっただろう。

昼下がりに電話のベルが鳴った。

「私を縛ってくれませんか」

知らない女性だった。

強い日差しが少し傾きかけている。




その日の夜、私は彼女とモーテルに行った。

彼女はセーラー服を着ていた。

抜けるように白い肌は私の手に纏わりつき、縄で拘束された乳房は赤く染まったまま黙していた。

私は何もしなかった。ただ、縛られた彼女の心を眺めていた。


やおら、股間に手を差し伸べただけで、柔らかな液体が私の指を濡らした。

縄を絞り上げるだけで、彼女は何度も身体を震わせて、息をつまらせた。

拘束された彼女は美しかった。

すでに言葉を超えていた。

長い髪を何度も飽かず撫でた。




翌日、電話のベルが鳴る。

その日は病院に行かなければいけない日だった。夜は人と会う約束をしていた。

その後電話のベルは鳴らなくなった。



10日ほどして、男性から電話がかかってきた。

街の喫茶店で会った。私と同年配の男性だった。

娘の初七日を済ませて、遺品の整理をしていたら、日記が見つかったという。彼は私に日記を開いて見せた。日記の最後には私の電話番号が書かれていた。そしてセーラー服を着た彼女の写真。

彼女は病のため2ヶ月ほど入院していたらしい。それが急な容体の悪化のため、息を引き取ったという。

彼はその写真を私に差し出した。形見にもらってくれと言う。




夏の夜の風をいっぱいに受けながら、わたしは車を走らせていた。

彼女は外泊はおろか、外出さえも許されていなかった。

上着の内ポケットに入れた彼女の写真。

終わることのない道。

頭の中で電話のベルが鳴る。

そして、電話のベルが鳴る。


 
 

雪村春樹氏の愛情

雪村春樹。

縛師。

1948年生。

趣味は料理と映画鑑賞。

2016年3月3日に他界された。

このニュースは当時から知っていたけれど、何も書けなかった。

ちょっとショックだったな。

雪村氏の縄は愛情に満ち溢れていた。

常に女性の心を感じ取り、心で会話をし続けていたのだろう。

それも、たくさんの女性の心を、平等に、愛情で縛っていたのだろうと思う。

でも、もう今となっては雪村氏の新しい愛情は見られない・・。

公式サイトはまだある。

遅ればせながら、ご冥福をお祈りいたします。

雪村春樹

緊縛師(縛師)雪村春樹オフィシャルサイト&ブログ 雪村流縄遊戯

(画像を加工させていただきました。雪村さん、ご容赦を)

感情を流す方法としてのBDSM

BDSMと言われる行為がある。

 

以下Wikipedia

“BDSM(ビーディーエスエム)とは、人間の性的な嗜好の中で嗜虐的性向をひとまとめにして表現する言葉である。

近しい文脈で語られる別の略語として、D&S、DS、D/S…Domination & Submission(ドミネイション:支配 & サブミッション:服従)と呼ばれる言葉もある。そのためSMと区別してBDSMはBondage & Discipline(またはDomination) & Submission & Manipulation(マニピュレーション:操作)などと原義が割り振られることがあり、解釈は様々である。ボンデージは直訳すれば「捕われの身分」であり、その状態を指す。ディシプリンは「懲戒」を意味し、西洋では体罰による厳しいも意味する。サディズムは加虐性向、マゾヒズムは被虐性向であるので、状況としての嗜虐と行為としての嗜虐を含む広範な言葉と言える。しかし一般的な欧文略語と同じように語感が一人歩きし始めている。一つのカップルが人権を尊重しない行為に対し、性的興奮を覚えるために、それら行為によって発生するであろうリスクに同意をしている。”

 

これには異論がある。BDSMとは性的な嗜好ではない。

 

BDSMとは、洗脳され、自由な行動や本来の自分の感情が発露できなくなった人の心を開放する行為である。

もちろん、両者の合意と思いやりが必須のものとなる。

例えば、教育や道徳という名前で洗脳され、自己正当化によって息も絶え絶えになった女性を緊縛し、倫理観から大きくはずれた羞恥や身体的拘束を与えることによって、女性は感情を解き放ち、魂の直感力を回復する。その行為をBDSMと私は呼びたい。

 

いろいろな女性と出会ってきたが、拘束されるだけで涙を流す女性もいた。

拘束してくれと頼まれる。

体に染み込んだ常識と呼ばれるもので心が動けなくなっているので、その常識の牢獄を破壊しないと息もできないくらいに心が喘いでいるのだ。

 

白い尻を叩いてやると、思わず泣き声を漏らす。

「痛いならやめるよ」

と囁くと、

「もっと叩いてください」

と懇願される。

 

彼女は、自己の開放を体全体で感じている。

ここに性的行為は必要ない。

 

このとき、女性はclientであり、わたしはcounsellorとなっている。

もちろん当初から二人の間には信頼関係が存在するのは必要だが、カウンセリングが進むと、拙いわたしは女性と気持ちを同化させてしまい、彼女が固定観念から脱皮する事実に限りない安堵と喜びを感じ、その心を抱きしめずにはいられなくなってしまう・・・。なぜなら、わたしこそ、洗脳され、身動きできなくなっているclientだからだ。

 

わたしはこうした行為をBDSMと呼び、信頼に基づいた人間同士の癒やしの行為であると思っている。


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