三島由紀夫がサルトルの「存在と無」を引用したことがある。

「一番猥褻なものはなにか。それは縛られた女の体だ」

そして三島はこう続ける。
「他者とは意思を持った主体であり、相手が意思を封鎖されている、相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が最もエロチシズムに訴える。」

この三島の言葉は浅い。
ただの理屈にしか過ぎない。

三島は理論武装する。
三島は肉体武装する。
実は、三島の本質、三島の種は、ただ「母親に褒められたい」というところに帰結する。これはわたしの感じるところでしか無いが・・。


緊縛とはエロチシズムに留まらず、無私の愛情であり、ある種の恋情でもある。その恋情は、他者にも注がれ、なおかつ自分自身にも流れ込むことがある。洗脳から開放されたい欲求が己にも存在するからだ。
 



雪村春樹氏は言う。
「風呂上りの女、生乾きの髪の毛の感触や匂いをかきながら、後ろから縛る。細いうなじ、白い襟足や背中を眺めながら…若いのに昭和の色香をただよわせる情の深さ…こんな女とは毎日、一緒に風呂に入りたいもんやなぁ。」

女性の美はその所作に宿っている。


「雪村春樹氏の愛情」
http://bottomx.shibugaki.jp/?p=93

今更、緊縛という行為について説明する気にはなれないが、緊縛というものが成立するためには、心よりももっと深いところで、わたしと他者が波動を重なり合わせていなくてはならない。

そのためには言葉は無い方がいい。波動を感じるためには、他者の履歴を知ることなど却って邪魔になりかねない。

そして、それは、洗脳や社会的仮面を破壊する一種の共同行為であるとも言えるかも知れない。

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