『宿六・色川武大』 色川孝子
私は色川に背を向け、眠ったふりをしたのでしたが、それでも彼は点滴の針がさしてあるほうの腕を動かして、私の肩を指でつつくのです。
「どうしたの」
彼は、片方の手のひらを表にしたかと思えば、裏へと返し、ひらひらさせて、おどけるのでした。
「それ、何なの」
「お星さま」
あまりのばかばかしさに、二人して顔を見合わせ、小声で笑ってしまいました。彼のベッドと私の簡易ベッドには段差があり、さぞ疲れるだろうと思うのですが、このあと彼は私の手を強く握り締めたまま、いびきをかいて眠ったのでした。
(中略)
まだ、生きているかのように、彼の身体は暖かく、皮膚は柔らかく、心地よく眠っているとしか思えないのでした。心臓は停止してはいても、脳は生き続けているかのように。真夜中の『お星さま』は、なにを意味していたのでしょうか。ただ単に、おどけていただけだったのでしょうか。それとも、別れの挨拶だったのでしょうか。何かを語りたかったのでしょうか。教えてください。ぜひ、もう一度、口を開いてほしいのです。



涙滂沱として流る。一気に疲れが出た。

「阿佐田先生」  1929年、東京に生まれる。

敗戦下の日本で博打を極め、週間大衆に連載した「麻雀放浪記」で、圧倒的な支持を受ける。

一方、本名・色川武大の名前で、1961年「黒い布」で中央公論新人賞、1977年「怪しい来客簿」で泉鏡花賞、1978年「離婚」でついに第79回直木賞を受賞する。その後も川端康成賞、読売文学賞などを受賞。

阿佐田先生が亡くなってから長い年月が経ってしまったが、先生が与えてくれた博打についての 様々な横顔は今も私達の心の中で生きている。そして、それは人生というものについても同様である。麻雀放浪記で私達に夢を与え、ドサ健ばくち地獄で度肝を 抜いてくれた。ナルコレプシーという奇病に苛まれながらも麻雀の神様と崇められ、近代麻雀誌上などで先生の牌譜を見るのが私達の楽しみだった。先生の牌譜 は千変万化という印象が強く、配牌の時に存在した牌が終局間近には一枚も無くなっているという事も多かったように思う。わたしが牌を握るときには、常に先生 の存在が心の片隅にあった。競輪にも造詣が深く、独自のバランス感覚で勝負の綾を作りあげていった。著書「阿佐田哲也の競輪教科書」(徳間書店)は、まさしく私達のバイブルになり得た名著である。1989年4月10日、午前10時30分、宮城県立瀬峰病院にて、逝去。死因は心臓破裂である。合掌。

冒頭の文章を、涙なくして見られない。誤解を怖れずに言えば、阿佐田先生と私は非常に似ている。いや、こう言えばやはり誤解されるだろ う。しかし、これは、事実である。 「 阿佐田哲也・色川武大 人生修羅場ノオト」という本がある。これを読んだときにも、余りにも似ているところが多いので怖くなったくらいだ。その阿佐田先生が「お星さま」か・・。 参ります。参ります。

ただ、先生、私は女の手を握れない。恥ずかしくて仕方ない。絶対に握れない。私は阿佐田先生を目標にしていたわけでもなく、阿佐田先生のように生きたいと思ったこともない。だが、その内実を知るに連れ、私との似ているところの多さに愕然とした。

阿佐田哲也

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