この世はわたしが作り出している。
わたしに内在するものが、色々な姿と現象として、わたしの五感を震わせる。
交通事故に遭ったとする。
それは、わたしが自分を否定する心の証であるかも知れないし、
わたしの中に他人を攻撃する心が存在することの証かもしれない。
いずれにせよ、原因はわたしの中にある。
原因というより、物事が起きる要因といった方がいいのかな。
わたしが飛行機というものを全く知らなかったとすると、
仮に上空を飛行機が飛んでも、わたしには飛行機が見えないだろう。
誰かを憎んでいれば、それは色々な形でわたしの世界をつくり出す。
誰かに刺されるかも知れないし、健康に害を為すかも知れない。
事は簡単ではない。
私の持つ知識や感情や経験などが複雑に絡み合って、私の世界がつくられている。
しかし、その世界に私は納得していない。
目に留まるツイートがあったので、了解を得て転載する。
「自己愛がなければ隣人愛を育めない。
自己愛が強すぎると反発して自分を嫌いな人をとことん叩く。
自己愛があまりにもないと自分を愛してくれる人を突き放してしまう。 」
<NewType架純>
これは目から鱗だった。
鱗の詳細はカタラナイ。
わたしは自分を愛してなどいない。
そもそも愛とは何であるかも分からない。
分からなくていいと思うし、愛などという言葉が無くなっても困らない。
しかし、弱者が困っているのは見過ごせない。
愛情をタテにして行動するのも嫌いだ。
それを見るのも嫌だ。
ガキの言う「愛してる」は「やらせてくれ」と同義語だ。
こう言うと、カウンセラーは
「あなたは十分な愛情の元で幼少期を過ごしていない」
と言うだろう。
私は答える。
「それがどうした?」
支離滅裂になってきた。
わたしは、忘却する方法を知りたい。
忘却力が欲しい。
忘却は何物にも勝る力であると感じる。
悟浄歎異に曰く、
変化の術が人間にできずして狐狸にできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの瑣事を有たず、したがってこの統一が容易だからである、云々。
また、
我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動を促す機縁だったりする。もともと意味を有った外の世界が彼の注意を惹くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れるすべてを温め、(ときに焦がす惧れもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、渠・悟空の眼にとって平凡陳腐なものは何一つない。毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見る者のような驚嘆をもってその美に感じ入っている。心の底から、溜息をついて、讃嘆するのである。これがほとんど毎朝のことだ。松の種子から松の芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議さよと眼を瞠るのも、この男である。
さらに、
悟空の今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去ったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これは判る。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこの猴は有っているのだ。
これが忘却力だと感じる。
若かりし頃、私はこの力を持っていた。
これは私の得意技だった。
わたしは確かに忘却力を持っていた。
しかし、今、それを取り戻す術を日々考えている有り様なのだ。
ひとつだけ、気付いたことがある。
それは、過去に一切責任を持たないということだ。
*** 悟浄歎異は青空文庫から抜粋させていただきました。