君は誰なんだ?

夜中に目が覚める。
毎日だ。


目が覚めた時、ここがどこなのかが分からない。
一生懸命、今まで住んできたいくつもの場所のことを思い出す。
その作業をしないと、いつまでたっても、今いる場所が分からない。



ここしばらく、傘を差したことがない。
ほとんど毎日、買い物に出かけたり散歩したりするのだけれど。

雨音を聞きながら夕飯を食べる。
今日は散歩しよう、と思う。
そう思って、食事を済ませて外に出ると雨は止んでいる。

帰ってきて、お茶を飲む。
雨が降り始める。

もう、これが普通だと思っている。



綺麗なものが見たい。
ひたすら見たい。

わたしが見るものは、わたし。



冷蔵庫から卵を3つとり出して、割る。
こうなる。




もう、月がどこからでるのか分からなくなっている。
ただ、直感的に、月は2つあると信じている。




幼い頃、誰かに言われた。
「ごめんなさい」より「ありがとう」でしょ。と。

誰に言われたのか分からない。



独りが好きだが、さみしがり屋である。
デスクで仕事している時に、背後で女性の声が聞こえた。

「独りにしないからね」
と。

これも、誰に言われたのか分からない。



実は、自分が何者なのか判然としない。
わたしには名前もあり、親も兄弟もいるが、しっくりとこない。
自分の名前を紙片に書いてみる。
これも自分の意識とぴったりと噛み合わない。

見続けていると、ゲシュタルト崩壊を起こす。
そして、文字が雲散霧消する。



女性の美しさとは、その所作に宿る。

https://pin.it/1R6kEiH


以前にも書いたが、わたしの中には幼い男の子と、三十代くらいの女性が住んでいる。男の子が、前に出てくると、寂しくなる、駄々をこねる。閉じこもる。そんな傾向がある。



支離滅裂な自分に、飽いている時。
鬱々とする時。
空を見上げて、このツイートを思い出す。



歌でも聴こうか。9月。

遠い世界に/五つの赤い風船


私は男なのか女なのか

随分前から、私は変なことに気付いた。
それは、私の中に女性が存在するということだ。

女性の所作に美しさを感じる自分がいる。そして私は男性を基本的に嫌悪する。嫌悪するわけは、男性は社会に洗脳され迎合することが多いと感じるからだ。自分ではそう思っている。まして男性に抱かれたいなどとは一切思わないし、男と群れるのも嫌いだ。

しかし、少年期の我がヰタ・セクスアリスは、女性として破壊される性を願望していたことを思い出した。やはり、私の中には女性がいる。

子供のころはよく女の子と遊んだ。ゴム飛びや、おはじきなどもした。私の母は内職で色々な縫い物をしていたので、家には輪ゴムがたくさんあった。それを繋いで、女の子の家に遊びに行く。片方を電柱に結び、片方を私が持ち、女の子はスカートをパンツの中にたくしこんでゴムを飛び越えた。

私は女性を綺麗だと思う。だが、綺麗だと思っている私は男なのか女なのか、それは分からない。

千人以上の社員がいる会社で働いたことがある。私は複数の女性社員に誘われて、女性用の休憩室でよくお昼のお弁当を食べていた。私を誘ってくれたのは二回り以上も年下の女性達だった。休憩室は広い和室の部屋で、女性社員の中にはその場で寝転がって身体を休めている人も何人かいた。でも、誰も私の存在を気にしなかった。だれにも咎められなかった。不思議なことだった。

女性が嫌がることはしたくない。レイプなどする男の気持ちが分からない。レイプは殺人に等しいと思っている。

そう、思っているのは、誰なのだろう。
男の私か、女の私か。



そう、私の中には、異様に感受性の強い男の子と、時に崩れ去りたくなる女性が存在している。

ふと思う。

失恋をしてみたいと。

もちろん女性として。

「水鏡」
作詞・作曲 鈴木一平

一生一度きりの別れならばいいものを
人は幾度となく悲しみを繰り返す
手探りの中でふと抱かれるよな
甘い想い出は通り過ぎてゆく
振り返る事無く明日だけを見つめながら
いつか来た道と気付かずに歩いた
そこは幸せと不幸の別れ道
悲しみ覚えた出逢い道
私だけの貴方にはなってくれるはずがない
心の温もりも今は
忘れてみるわ 忘れてみよう
揺れる二人の夢模様

水に浮かぶ枯葉に目を向けると
ちょうど今の私同じように見えた
風に打たれ雨に打たれ辿る道は
苦しみ覚えた迷い道
儚い恋のほろ苦さを知って
強がりはよせよと口ずさんでみます
溢れる涙は止めどなく流れて
戸惑う私は闇の中
私だけの貴方にはなってくれるはずがない
心の温もりも今は
忘れてみるわ 忘れてみよう
揺れる二人の夢模様

フェティシズム

「心理学や精神分析学では、性愛の対象が異性の存在全体ではなく、その身体の一部(毛髪、手、足、指、耳など。通常は性器は含まない)や、関係する物品(相手の持ち物や身に付けたものなど。たとえば、靴や、靴下、下着、ハンカチなど)に対してとくに強く向けられる傾向をフェティシズムとよぶ。通常の性愛においても異性の身体の一部がその対象になる傾向はあるが、フェティシズムの場合は、身体の一部や関係する物品(これらのフェティシズムの対象をフェティッシュとよぶ)がその異性から切り離され、それ自体が性的満足の契機となる。したがって、それ自体にきわめて強い執着を示し、それなしでは性的満足を得られない場合が多い。この概念はA・ビネによって心理学に適用され、その後、S・フロイトによって理論的に発展させられた。フェティシズムの発生要因としては、幼児期の性的興奮と、特定の対象とが偶然の状況で結び付けられたとする説明や、部分によって全体を象徴する人間の普遍的な認識様式に結び付けた説明などがあげられる。フェティシズムは過去には、節片淫乱(いんらん)症などと訳され、異常性欲、性倒錯の例として示されてきたが、近年、性愛の対象が身体の一部や関係する物品に向けられる傾向は普遍的に存在するとされ、これを倒錯や異常性欲として扱う傾向は弱くなってきている。」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 

フェティシズムは異常性欲として語られることが多いが、はたしてそうだろうか。神は細部に宿るというが、美もディテールに宿ると思う。

 

谷崎潤一郎は「刺青」から晩年の「瘋癲老人日記」まで、女性の足にこだわり、田山花袋は「布団」で女性が使っていた布団に顔をうずめた。

性別を問わず、たとえば後ろ姿の美しさに魅かれることなど日常的な出来事ではないか。フェティシズムの本質は想像力だろう。そして、ゲシュタルト崩壊がからんでいる。
 

ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい、独: Gestaltzerfall)とは、知覚における現象のひとつ。 全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。幾何学図形、文字、顔など、視覚的なものがよく知られているが、聴覚や皮膚感覚においても生じうる。」(wikipedia)

漢字をじっと見つめ続けると、その意味が分からなくなるのもゲシュタルト崩壊だ。
 

女性の耳朶をじっと見つめていると、ゲシュタルト崩壊が起きることがある。耳朶は女性から切り離され、耳朶として存在感を放ち始め、まるで人格をまで持つかのように感じられてくる。フェティシズムはやはりゲシュタルト崩壊及び想像力とともにある。人間ならではの現象なのだろう。

 

次元が変わった夜

これは覚書である。

 

令和元年10月1日午前1時。

私はベッドに腰掛けていた。

その時不思議な感覚に気づいた。

 

「部屋のカーテンの外側には何も存在しない」

 

静かだった。いや、静かだっただけではない。何者の気配もない。

庭には植物がいる。バッタもいる。ミミズもいる。時々猫も通る。

それらの気配が一切ない。

 

次元が変わっている。

他に表現のしようがない。

 

不思議な確信が私に降りてきた夜。

 

 

 

 

 

 

ストレスとはなんだ

ストレス。

刺激により引起される非特異的な生体反応。生体に加わる力をストレッサー,それによって起る生体の反応をストレスという。 1938年にストレス理論を提示したカナダの生化学者,H.セリエによると,「ストレスとは,どんな質問に対しても答えようとする身体の反応」である。この理論は,寒冷,暑熱,放射線などの物理的刺激,ホルマリン,毒物,酸素不足,栄養障害のような化学的刺激,あるいは身体的拘束や感染のような生物的刺激,怒り,不安,焦燥などの心理的要因その他,どのような刺激に対しても,身体はすべて同質の生体反応を示すというものである。これを汎適応症候群あるいはストレス症候群という。この反応は,下垂体-副腎系が主役を演じ,副腎皮質ホルモンの分泌を伴うことが特徴であるが,そのほか胃,心臓,胸腺に形態学的変化が起る。このような考え方は 19世紀以来主流を占めていた「特定の原因が特定の病気を起す」という病理観に対する反論であるとともに,原因がそのまま結果をもたらすという医学因果律を反省させるものであった。致命的な疾病のうち 75%は非特異的な生体反応としてのストレスが予後を決定するともいわれている。 「ブリタニカ国際大百科事典」

ストレスがなぜ発生するのか。

心理的要因のみを考えると、それは自分が正しいという思い込み、あるいは信念に似たようなものが核となっているような気がしてならない。H.セリエ風に言うと,「ストレスとは,どんな状況にあっても自分が正しいとする心の反応」である。また逆説的に言うと、「どんな状況にあっても自分が悪いとする心の反応」でもある。自分を善とするために人は様々な理屈をつける。また、現在の状況を長く続けてはいられないときに、自分を悪とし、自分を責めることによって、状況を終わらせようとする。

これらの判断の根本にあるのは、善悪の判断である。そして、判断するのは、洗脳され続けた脳であり、洗脳は教育という名のもとに行われる。真の善、真の悪、そんなものがあるのだろうか。一度考え直して見る価値のある問題だ。人間の歴史を振り返れば、正義の名のもとに戦争を起こし、大量の人命を奪ってきた。そして、勝った者が正義であり、負けた者が悪である。ということは、戦争前には正義も悪も存在しなかったということになる。存在したのは洗脳だけである。

わたしたちは、教育という名の洗脳から脱却しなければならない。自分が正しいという思い込み、自分を責めつづける逃避。これらは大きなストレスを生み続ける。即断する心はすべて洗脳から生まれたものだ。ストレスは交感神経を緊張させ、血流を阻害し、あらゆる身体的障害を発生させる。

ストレスの原因というのは他にもたくさんある。過去、後悔、執着、憎悪、正当化・・そして希望、努力、未来・・までも。

「願いは叶う」こんなことを信じていては、信じることがストレスとなる。

話が混乱してきたついでに、もっと混乱させる。

運命は決まっている。

人間には、一秒先のことも予知できないだけだ。

もっと混乱させる。

私達は運命を選んで生まれてきている。

だから、明日という日は、なるようにしかならないし、なるようになるさ。明日のことを思い煩っても詮無いことだ。

私達は運命を見ている存在だ。

本当は何もしていない。

観察者が現実を決定するというのは量子力学の基本だが、私達は観察者であり、観察している運命は、自分が選択したものなのだ。

もっと混乱させる。

私達が見る青い空や、川のせせらぎは、私達自身である。

分かる人には分かるだろう。

真実は自分で探すものだが、信じたものは一度忘れ去り、あとは観察者として感じるということに身を委ねたほうがいい。そうすれば、ストレスという言葉、ストレスという事実、ストレスという洗脳・・から離れられるかもしれない。これは私が私自身に話しかけていることだが。

ブーグロー

William Adolphe Bouguereau