「山月記」にて虎と化した李徴は言う。

何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようにれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それがほとん羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

倨傲
おごりたかぶること。
郷党
自分の出身地。郷里。
碌々
自主性のないさま。
慙恚
恥じて恨み怒ること。
に伍する
凡人の仲間に入る。


少し要約すると、

自分の臆病な自尊心を守るために、詩人になって名を上げようと思いながら、努力もしなかった。かといって、凡人の仲間に入ることも潔しとしなかった。共に、自分の臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のなせる技だった。

自分に才がないということが露見することを恐れ、あえて努力して才を磨こうともせず、また、自分の才をなかば信じるがゆえに、凡人の仲間になることも出来なかった。李徴は次第に世を離れ、人と遠ざかり、ますます内なる自尊心を飼い太らせた。



人は、自分を肯定するために、そして自尊心を守るために、色々なことをする。その一つがセルフハンディキャッピングというものだ。

自分をハンディのある状態にしておくことで、プライドを守り続けるのである。

これは無意識の世界で行われることが多い。運動会で最下位になるのが嫌だから、それを親たちに見られるのが嫌だから、前の日に足に怪我をしてしまう。本人にしてみれば故意に作った怪我ではない。偶然なのだ。しかし、必然なのだ。

人にとって自尊心ほど厄介なものはない。

李徴は、才ある若者だった。潔くないことを恥とした。しかし、心に猛獣を飼っていた。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心

そして李徴は自ら虎と化した。
虎と化すことを潔しとしたのか、それしか道はなかったのか・・。

わたしは虎と化した李徴と会ってみたい。
そう思うのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

9  +  1  =