愛なんていう得体の知れない言葉は理解できない。

わたしは自分を愛してなどいない。
だから他人を愛せない。

こう書くと誤解を招くだろうな。
実は、わたしには愛という言葉がわからない、ということだ。

どうしても感覚的に理解できない。その言葉が放つ違和感はわたしの心を収縮させてしまう。愛という言葉はわたしたちを欺くために作られたものではないのかとさえ思う。

しかし、恋という言葉はこの違和感をわたしに投げかけない。正式には、戀か。

こい【恋】コヒ
①一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。万葉集20「常陸さし行かむ雁もが吾が―を記して付けて妹に知らせむ」。「―に身を焼く」
②植物や土地などに寄せる思慕の情。万葉集10「桜花時は過ぎねど見る人の―の盛りと今し散るらむ」
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広辞苑ではだめなようである。

戀は孤悲である。
「人、土地、植物、季節などを思い慕うこと。めでいつくしむこと。」
「目の前にない対象を求め慕う心情をいうが、その気持の裏側には、求める対象と共にいないことの悲しさや一人でいることの寂しさがある。その点、「万葉」で多用された「孤悲」という表記は漢籍の影響も指摘されてはいるが、当時の解釈をよく表わしている。」
-日本国語大辞典-

わたしは自神がこの世界を作っていると思っている。あなたもあなたの世界を作っている。しかし、完全に洗脳された人は、inputされた情報のみで歪な世界を作ってしまっている。脳は世界を可視化する役割をしている。洗脳された人がその脳で作る世界は内なるものが完全にシャットアウトされている。わたしたちが見る世界は百人百様であると言っても言い過ぎにはならないだろう。もしかすると、この世にはわたししかいないのかもしれないのだ。

だから、常に孤悲の情を心に抱えているわたしは、戀を癒やすために、花に水をやり、鳥を呼び、時には美しい少女を街角に創り出す。

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樋口一葉の「にごりえ」にはこういう一文もある。
「おのづと肩身せばまりて朝夕の挨拶も人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、其れをば思はで我が情婦(コヒ)の上ばかりを思ひつゞけ、無情(ツレナ)き人の心の底が夫れほどまでに戀しいか」

やはり、孤悲には、遠く離れているという情感が秘められているようだ。

先日、ラジオを聞いていて、ある言葉を知った。
それは、

“decency”
品位、礼儀、 礼儀正しさ、 良識、親切

(用例)
Everyone deserves to be treated with respect and decency.
だれもが敬意と礼儀を持った対応をされて当たり前である.

戀(孤悲)を知っている人間は、愛などという言葉を使わなくても、”decency”でいいのではないかと思う。

品位、礼儀、良識、親切。

これらの言葉を心深く知っていればいい。

わたしは自神を信じているし、機を見ては他人を深く思い遣る。
礼儀には礼儀で応えるし、品位ある所作に美を覚える。
愛などという言葉を使うから、話はややこしくなるのだ。