そのころ私が馴染みにしていた一件の旅館がある。「美幸」という名前で、夕方になると客引きの中年女が、食堂にあるような丸椅子を玄関の前に出して団扇をあおいでいるような、いわゆる赤線地帯の旅館である。何故か昔から赤線は川沿いと相場が決まっているのだが、「美幸」も幅70メートルほどの大きな川の堤に建っている。赤線というのは、戦後役所が売春宿の建設されている地域の地図を赤い線で囲ったから、赤線というらしい。ちなみに私の住んでいるところでは青線というのもある。    


 私はもう十年を越える「美幸」の馴染みで、客引きの中年女とも仲がよかった。女は一応女将と呼ばれていたが、座ったスカートの裾から団扇で風を送っている様は、とても女将と呼べるものではなかった。


 ある夏の日、夕闇が東の空から西の夕焼けを潰しにかかろうとする頃、私が車を静かに女将の前に停めると、女将が助手席の窓から首を突っ込んでにやりと笑う。 「暑いね」
 私がとりとめもない言葉を吐くと、女将は故意に不機嫌な顔を作り、
「あんた、夏だから暑いに決まっとる」
と言う。    
 この女将は京都の生まれだというが、言葉を聞いていると九州やら関西やら分からないところがある。それに加えて一挙手一投足がいかにも芝居じみている。だが私は、それが女将の憎めないところであると思っていた。
「それよりねあんた、ええ子がはいっとるから上がっていきや」
 そういうと女将は私の車の助手席の上で相好を崩した。
「若い子か」
「そうよ。はたちはたち。」
  女将はいかにも嬉しそうに言う。それはまあ、売れっ子が出来れば、女将も儲かるわけだから若い女の子が入って悪い気はしないだろう。
「初めてなんやから、ちょっと教えてあげてえや」
断っておくが、私は女衒ではない。教えてやることなんか何もないのだが、そこがまた女将のうまいところだと、心の中で苦笑いした。

 
「失礼します」
と言って、部屋に入ってきた女は自分のことを”みどり”と名乗った。 二の腕が抜けるように白い女だった。まだ少女の香りをそこかしこに残している。少し伸ばした漆黒の髪は周りに艶を放っている。
 ベッドの中で首筋に舌を這わせると、辛そうに躰を捩り、昂まってくるとまっすぐに伸びた脚を私の躰に巻き付けるようにしてくる。私は、息を荒げる彼女の赤い唇に唇を近づけてみた。すると彼女の方から舌を求めてきた。この時点でとうとう私も、のぼせ上がったただの男に成り下がってしまった。しかし、唇だけは許してはいけないなどと玄人ぶった忠告をするべきかどうか、血が上った頭の中で私は考えていた。細いウェストを抱え、乳房を口に含みながら、私はみどりに溺れていった。


 皺だらけになった白いシーツの上で、みどりは自分が北海道の生まれであることや、家出をしてきたことなどをとりとめもなく喋った。私は少し息を弾ませながら、ただ女の話を聞いていた。どうでもいいような疲労感が指先から力を失わせている。どこか遠くで犬が吠えているのが聞こえる。そんな間延びした時間は居心地のよいものであったが、ベッドサイドの電話がそんな空間を簡単に裂いた。タイムアウトだ。みどりは急いで下着と白いTシャツを着て、細長いジーンズをするりと腰までたぐりあげた。
「また来てね。お願い」
 そう言いながら部屋を出ようとするみどりに私は声を掛けた。
「ちょっと待て」
 私は、客が服を着て部屋を出るまできちんと待っているように、みどりに言い聞かせた。そしてそれが自分の稼ぎにも繋がることも付け加えた。みどりはそんな私の意見に悪びれもせず、「はい」と言って私が服を着るのを正座したままじっと待っていた。少しくらい部屋を出るのが遅くなっても女将は機嫌を悪くすることはないだろう。それだけ私はこの旅館に通い詰めていた。


 私はそれから数回みどりの相手をした。いちいち客に気を遣ってもいられないだろうからと思い、旅館が店仕舞いをする小一時間ほど前に上がり、最後の客としてみどりを買い占めた。みどりもそれを知っていて、私の前では無防備だった。達しそうになるときに激しく舌を吸ってやると、しなやかな腰を突き上げながら小刻みにせつない痙攣を繰り返した。しかし、みどりが疲れた様子をしているときには、私は情交を求めなかった。そして、素っ裸のみどりを私の腕枕で眠らせてやった。素直な女だと私は思っていた。


 夏も終わりにさしかかる頃、私の体調は崩れた。毎日微熱が続き、息をするのさえ億劫に感じられることもあった。私はほとんど一日中自宅のベッドの上で暮らした。夕方になるとヒグラシが鳴き、隣家で水撒きをする音が聞こえる。医者は肝臓が少し弱っているからと、私の静脈にミノファーゲンを打ち、ビタミン剤と漢方薬を調剤した。いくつかの永い夜をやり過ごすうちに私はいくつもの悪い夢に苛まれた。大きな蜘蛛が巣を張り私を待ち構えている。私は当然抗おうとするが、それもかなわず蜘蛛の巣に吸い寄せられるように堕ちていく。目を覚ますと決まって熱が上がっていた。
 そんな症状も次第に薄らいできたある夜、幸子が電話を掛けてきた。幸子は旅館「美幸」で私が10年来第一の馴染みにしている女だ。
「獏さん、元気?」  
 懐かしい声だ。
「みどりちゃんが心配してるよ」    
 幸子の言葉の語尾が僅かに拗ねている。みどりが店に来てからも私はみどりばかりでなく、幸子の客にもなっていた。それに幸子とは付き合ってきた時間の長さが違う。私とはもう肌が触れただけでお互いの気持ちが分かるかと思えるほどの仲である。その上、幸子は性格もさっぱりとした女である。抱きあえば体も心も溶け合うほどお互いに信頼している。
 私は体調が戻りつつあることを幸子に告げ、近々店に行くからと付け加えた。少し開けてある窓から秋の匂いがする夜風が吹き込んできた。気がつけば、 私はいつも独りだった。 


 翌日、久しぶりに外出した私はデパートの地下で出来合いの惣菜を吟味していた。少し変わった物が食べたくなったので、わざわざタクシーを呼んで買い物に来たのだ。しかし、急にこのような人混みの中にやってくると平衡感覚を失ってしまうような感覚に襲われる。そんな時不意に誰かに肩を二度叩かれた。振り向いてみるとそこにみどりが立っていた。
「会っちゃった」
 満面に笑みを浮かべて、切れ長の目がいっそう細くなっている。
「ちょっと付き合ってくれませんか?」
そう言うと、みどりは私の右手にぶら下がったデパートの袋を奪い取り、私の手を引いてエスカレーターの方へ向かった。
「獏さんが見えないからみんなで心配していたの。でも、よかった。こんな所で会える なんてなんか得した気分。」
エスカレーターで腕を組んだまま並んでみると、みどりは思ったよりも小柄に見えた。頭のてっぺんが丁度私の肩の位置にある。みどりは化粧品売場で私にオーデコロンを選ばせ、その上の階で淡いブルーのTシャツを一枚買った。そして、疲れてきた私をデパートの中のコーヒーショップに座らせ、自分はレモンの入ったアイスティーを頼み、私にはブラックの熱いコーヒーを差し出した。
「いつか、コーヒーはブラックしか飲まない、って言ってたでしょ」
 私はみどりにそんなことを話した記憶はなかったのだが、私が話す以外にみどりが知っているはずもない。久しぶりに外で飲むコーヒーはどこか昔の味がする。みどりは紙袋から取り出したオーデコロンを手首に少し付けて大きく吸い込んでいる。
「いい匂い」
「だね」    
 私はみどりの手首を取ってそっと鼻に近づけた。そして急にみどりを抱きたくなった。掴んだ手首の白さがみどりの裸体を喚起する。私はみどりの手首をそっと唇でなぞった。みどりは肩をすくませて小さな声を漏らす。私はみどりの手を放し、カップの底に残ったコーヒーを啜った。みどりもアイスティーを少し口に含んで転がすように飲み込んだ。十坪ほどのコーヒーショップは客の出入りも激しく、黒いタイトスカートをはいたウェイトレスがきびきびと仕事をこなしている。
「獏さんは結婚しないの?」
「別に決めているわけじゃないよ。でも一度失敗してるからね」
「失敗したから、嫌なの?」
「嫌じゃないさ。ただ縁がないんだな。男と女が同じ生活を共有するなんていうことは、別に考えてそうするのではなくて、知らないうちにそうなっているっていうものだからね。だけど最近は知らないうちにそうならないんだよ」
「ふーん。解るような気もする」  
 みどりは唇を尖らせて呟き、ウェイトレスは冷たい水を私のグラスに注いで踵を返す。ふたたび軽微なめまいが私の意識を揺らせた。

 その日私はみどりの運転する白いミニクーパーに乗せてもらって家まで辿り着いた。小さなドアから降りるときに、一言「上がっていくか」とでも声を掛ければ、私はきっとみどりとなし崩しに暮らすことになっただろう。しかし、頭では考えていながらその一言がどうにも言葉にならなかった。そして私はその事を、みどりへの愛の証にするつもりもない。ただ、その一言が言えない自分を後日腸が捻り切れんばかりに憎んだ。

 みどりが結婚したのはそれから三ヶ月後のことだった。相手は小さな建設会社を興したばかりの男で、「美幸」の客の一人だった。結婚式は身内だけで行われたが、北海道にいるみどりの両親は姿を見せなかったらしい。その男は真面目でよく働き、大工の見習いから始めて少しずつお金を貯めてようやく人を雇えるまでになったということだ。私はその事を幸子の膝枕の上で聞いていた。
「聞いてもいい?」
 幸子は私の額にかかった髪を子供をあやすように撫で付けている。
「何故、みどりちゃんと一緒にならなかったの。好きだったんでしょ」
私は答えに窮した。だから黙っていた。幸子はそんな私の髪を撫で付けることを止めようとはしなかったが、それ以上何も語ろうともしなかった。小さく開けた窓から凍てついた星空が見える。もうとっくに冬が来ていた。部屋の隅の電気ストーブが哀しかった。


 しかし、みどりの幸せは永くは続かなかった。結婚して間もなく肺癌が発見されたのだ。大学の付属病院で何度も検査が行われたが、既に手術の出来る状態ではなかった。春が来る頃には、みどりは酸素ボンベを放せない状態になった。昼間は幸子が看病に通い、夜は亭主が付き添った。私は逐一を幸子から聞いていたが何もできなかった。ただ、短い手紙を幸子に託しただけだった。みどりはその手紙を見てとても喜んでいたという。そうして、夏を待たずにみどりは逝ってしまった。葬儀は行われなかった。みどりの両親もついにやってこなかった。亭主とその両親と幸子だけで見送ったという。


 数日後、私はデパートの化粧品売場に出かけた。そしていつかみどりが買ったオーデコロンの小瓶を求めた。店員は以前の女性ではなく、背が高く髪の長い女だった。くたびれた背広姿で現れた私を胡散臭そうに眺め、オーデコロンを包んだ袋を親指と人差し指でつまみ、私の前のショーケースの上にコトリと音を立てて置いた。その態度に私の感情が暴発した。目の前の店員を大声で怒鳴りつけると、上司の女が飛んできた。店員は顔を蒼白にして、立ちつくしている。このデパートへ入ったときからずっと、去年偶然出会った時のみどりの笑顔が私を悩ませていた。上司の女は私を応接室に案内し、コーヒーを出して何度も頭を下げた。彼女は私とみどりのことを覚えていた。私は自分でも訳の分からないうちに今までのみどりとのことや、一緒にオーデコロンを買ったこと、そしてみどりが死んでしまったことまで、一気にまくし立てた。


 悔しかった。世の中の色々なことが一見不条理のように見えて実は整然として連なっているという事実が胸を切り裂くほどの痛みを私に与える。その中に私がいてみどりもいて、全ての事象が時間を超えて流転していく。その上に、愛情が重なり、哀切が重なり、耐えきれない思いとして私の口から次々と吐き出されていくのだ。とりわけ、私がみどりの最期を看取る立場になり得なかったことが、大きなわだかまりとして感情の高波を導いてくる。上司が下げ続ける頭の向こうにはもう真っ白な積乱雲が立ち昇り始めていた。


 私はその夜、ベッド一面にオーデコロンを振りかけて、湧き上がってくる愛情や後悔や悔しさ、切なさ辛さ、それらのやりきれない思いを抑えようともせずに大きな声を上げて泣き続けた。みどりが死んでしまったことは確かに辛すぎることだった。そして悲しすぎることだったが、それよりも私は自分の命の器を恨んで泣き続けたのである。

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