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感情を流す方法としてのBDSM

BDSMと言われる行為がある。

 

以下Wikipedia

"BDSM(ビーディーエスエム)とは、人間の性的な嗜好の中で嗜虐的性向をひとまとめにして表現する言葉である。

近しい文脈で語られる別の略語として、D&S、DS、D/S…Domination & Submission(ドミネイション:支配 & サブミッション:服従)と呼ばれる言葉もある。そのためSMと区別してBDSMはBondage & Discipline(またはDomination) & Submission & Manipulation(マニピュレーション:操作)などと原義が割り振られることがあり、解釈は様々である。ボンデージは直訳すれば「捕われの身分」であり、その状態を指す。ディシプリンは「懲戒」を意味し、西洋では体罰による厳しいも意味する。サディズムは加虐性向、マゾヒズムは被虐性向であるので、状況としての嗜虐と行為としての嗜虐を含む広範な言葉と言える。しかし一般的な欧文略語と同じように語感が一人歩きし始めている。一つのカップルが人権を尊重しない行為に対し、性的興奮を覚えるために、それら行為によって発生するであろうリスクに同意をしている。"

 

これには異論がある。BDSMとは性的な嗜好ではない。

 

BDSMとは、洗脳され、自由な行動や本来の自分の感情が発露できなくなった人の心を開放する行為である。

もちろん、両者の合意と思いやりが必須のものとなる。

例えば、教育や道徳という名前で洗脳され、自己正当化によって息も絶え絶えになった女性を緊縛し、倫理観から大きくはずれた羞恥や身体的拘束を与えることによって、女性は感情を解き放ち、魂の直感力を回復する。その行為をBDSMと私は呼びたい。

 

いろいろな女性と出会ってきたが、拘束されるだけで涙を流す女性もいた。

「いやなのか」

と尋ねると、首を横に振る。

白い尻を叩いてやると、思わず泣き声を漏らす。

「痛いならやめるよ」

と囁くと、

「もっと叩いてください」

と懇願される。

 

彼女は、自己の開放を体全体で感じている。

ここに性的行為は必要ない。

 

このとき、女性はclientであり、わたしはcounsellorとなっている。

もちろん当初から二人の間には信頼関係が存在するのは必要だが、カウンセリングが進むと、拙いわたしは女性と気持ちを同化させてしまい、彼女が固定観念から脱皮する事実に限りない安堵と喜びを感じ、その心を抱きしめずにはいられなくなってしまう・・・。なぜなら、わたしこそ、洗脳され、身動きできなくなっているclientだからだ。

 

わたしはこうした行為をBDSMと呼び、信頼に基づいた人間同士の癒やしの行為であると思っている。

 

BDSM

 

 

 

感情の自家中毒

人間は、躾、教育、倫理、法律、情報等によって洗脳され続けている。

そして、洗脳された頭脳で事象を判断し、常に自己正当化を謀ろうとする。

そこに喜怒哀楽の感情が生まれ、感情は記憶に刻み込まれいつしかストレス化する。

人を許さない人は自分を許さない。人を疑う人は自分を疑う。

 

感情は折りに触れ、いや、常時流していかないと、心の排水口が詰まってしまい、本来自分の持っている直感力が働かなくなる。

子供の頃にあれほど綺麗だった空に感動を得ることもなくなり、頭脳でしか生きられなくなる。

いまや人は古い感情の汚物を抱えて自家中毒に陥っている。

 

これは私のことだ。

 

若い頃、麻雀をやっていて、次に来る牌がわかることが度々あった。

そして、若い頃は、強い引きがあった。引き寄せの法則のごとく、手牌は動き美しく仕上がっていく。

 

いまは麻雀をしないが、もう、あの引きの感覚を思い出せない。

それは、やはり、自分が洗脳され、感情を手放さず、挙句の果てには、自分で自分を洗脳し、自己正当化を固定化しているからに違いない。

 

完璧主義疾患である。

この治療のためには、まずは、感情を捨て去ることから始めなくてはならない。

 

splash

撮影者は神戸在住のKoji Takashima

 

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観察者がいないと現実は存在しない

「今を生きる」という。「今しか存在しない」という。

 

理屈はわかるが、できない。

記憶を消すことはできないし、時々その記憶にピーナッツバターをかけて、ゆっくりと舐め続けることもある。

また、若い女の子と裸でベッドに横たわってその白いお腹を見ていると、自分が時をさかのぼったような感覚に襲われることもある。

 

色々なことがあったし、これからも色々なことがある。

それでいいじゃないか。

死ぬときは来るのだし、私が今生きているという証などどこにもない。

認識している自分がいるだけなのかもしれないし、別の次元では違うことが起きているのかもしれない。

 

観察者がいないと現実は存在しない。

私は今も昔も観察者である。

しかし、目の前に出現することに喜び悲しみ憤る。

それでもいいじゃないか。

 

先日来、部屋でラップ音がする。

電気がショートして弾けるような音だ。

数日経っても止まらないので、

 

「やかましいぞ、こら」

 

と一喝したら、それ以後、音はしなくなった。

 

現実は案外面白いものかもしれない。

 

 

勝つのは偶然と知ること

博打において、自分の戦法を持たないのは、自殺行為に等しいのかもしれない。

戦法は何でもいい。

 

たとえば、FXにおいて、100日移動平均線を超えたら買う。下抜けで売る。

これだけでもいい。

 

こうした単純なルールを決めたら、気をつけなければならないのは、損小利大。

そして、ポジションにこだわらない心。

 

自分の描いた未来のようにチャートが動かなければポジションを捨てる。

そしてまた、同じルールでポジションを持つ。

また違ったら捨てる。

そして、さらに、同じルールでポジションを持つ。

 

これを繰り返していると、稀に、自分の思い描いた未来のように、チャートが形作られていくことがある。

このときに、徹底的についていく。

 

ダブルトップだからここで利食いだとか、AB=CDを形成したから、もういっぱいいっぱいだろうだとか、理屈をつけない。

このような感情は、殆どがプロスペクト理論によって心が揺さぶられているから、頭脳が作り出してしまう感情だ。

 

前回高値を抜けずに、前回安値を下抜けたら決済。これなら納得できる。

だから、尻尾は取れない。それでいい。ダウ理論だな。

 

利益が上がるときは不思議な感情を持つ。どうして、取れたかが自分にもわからない。

勝つのは、偶然だということだ。

 

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彷徨を聴く

小椋佳の「彷徨」を聞いていると、やたら昔のことが思い出される。

 

いったい何人の女との別れを繰り返したことか。

いったい何人の女の乳房を口に含んだことか。

 

数え切れない。

覚えていない女もいるだろう。

 

博打三昧だった高校の頃。

毎日、パチンコ屋に通い、毎日、雀荘で夜を過ごした。

 

いろんな人と卓を囲んだ。

競輪選手、漁師、スナックのママ、電電公社の職員、ホモセクシュアル、役人・・・。

美輪明宏の付き人だったいう人には、よく股間を触られた。

 

ヤクザのおっちゃんとはよく将棋を指したが勝った記憶がない。

将棋を指している最中、そのおっちゃんに因縁をつけた男がいた。

おっちゃんは少し離れたところにいた自分の女に「チャカ持ってこい」と言った。

 

深夜に友達と二人で狭い道を歩いていると、向こうから長髪の薄汚れた男が歩いてきた。

右手を背中の後ろに隠すようにして、こちらの様子を上目遣いに見ている。

殺気というのは分かるものだ。

隣の友人もその男が包丁を背中に隠していることを直観した。

そして、

「おまえ、そんな光り物持たんと、喧嘩もできんか!!」

と一喝した。

 

 

いろんな事があった。懐かしいが、まだ、これからだと思う。

 

「この空の青さは」

帰るときめた夜が明ける

一人よがりの 冬が終わる

ああ それにしても この空の青さはどうだ

この雲の白さはどうだ

僕はもう逃げない

君が待ってる

 

およそ歌詞というものに出てくる「君」「きみ」と言う単語はもう一人の自分のことを指していると考えた方がいい。

マイケルの歌だってそうだ。

 

Michael Jackson_You Are Not Alone

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