この世のこと, 心理, 日記, 言葉 キダタロー、テレビ、上岡龍太郎、供託金、岡部まり、憲法、憲法違反、探偵ナイトスクープ、日米合同委員会、洗脳装置 雨が降り出した月曜日の妄想日記 2024年5月27日 SNSを眺めてみると、どうも違和感がある。先に言っておこうか。 日本政府とは、日本人から労働と金銭を提供させ、それをDSに分配する組織である。基本的な国の方針は日米合同委員会によって、米軍から官僚に伝えられる。これは指示である。この指示に従わない政治家は干される、スキャンダルを暴かれる、或いは殺される。日本政府は日本人のための政治をすることはない。絶対にない。
この世のこと, 日記 DS、ロッキード、中国、円、圓、小沢一郎、新札、田中角栄 新札が発行されるというが、誰がデザインしたのだろうか 2024年5月20日 7月から新札が発行されるという。今日も日記だから、エビデンスもソースもない記事になるだろう。 この新札デザイン…
日々のこと, 日記 アンドリュー・カウフマン、コロナ、トーマス・コーワン、のり玉、妖精、思考、阿修羅、食事、體 常識というものはすべて間違っている 2024年5月15日 コロナ騒ぎ以来、いろいろと小さなことまで勉強させていただいた。 千島学説やトーマス・コーワン博士、アンドリュー・カウフマン氏らの動画、そして食べ物からサプリ、塩、重曹、クエン酸、水素水、発酵食品等々知識は得た。経験もした。しかしながら、当たりは引かない。あくまでも、わたしの体調を改善する当たりクジは引かない。
この世のこと, 批評 ドナルド・トランプ、トランプ、プロレス、原爆、天皇、興業、裕仁 プロレスのアクターだったトランプは・・ 2024年5月12日 トランプ氏は演説で「大統領には免責特権を与えなければならない。トルーマンを見てみろ。広島、長崎。(特権がなければ)彼は(投下)しなかっただろう」と述べた。原爆投下に関し「決して良い行為ではないが、第2次世界大戦を終わらせたことは確かだろう」との見方も示した。
この世のこと, コロナウイルス, 日々のこと CDC、CT値、PCR検査、WHO、ウイルス、エクソソーム、コロナ、スペイン風邪、トーマス・コーワン、はしか、ポリオ、狂犬病 アンドリュー・カウフマンインタビュー 2024年5月9日 そもそも、発熱する病気というのは山ほどある。それなのに、発熱しただけで、PCR検査を受けさせられ、陽性と出れば、自動的にcovid-19感染というわけのわからない診断をされる。とても不条理な現実だ。こうした日常についてアンドリュー・カウフマン氏がインタビューに答えている。下記の字幕大王さんのページだ。字幕大王さんの動画や記事は時々削除されることがあるので、書き起こしをここに残しておく。そもそもこの記事はずいぶん前に書いて公開を躊躇っていたものだけれど、今年の秋から新しいワクチンがどうのこうのという噂が出ているので、今日公開しておくことにした。
日々のこと, 日記 LED、SARS-CoV-2、三毛猫、記憶 「かえろかな」とくちびるが空をかたちどる 2024年4月29日 わたしには0歳の記憶がある。目の前にある母の乳房の映像を今も覚えている。 小学校4年生の頃まで、わたしは二人いた。體を司るわたしと、體を後頭部の斜め45度上あたりから見ているわたし。わたしは母に尋ねた。どちらが本当のわたしなのかを。しかし、母は何も答えなかった。いや、本当は何か言葉を返してくれたのかも知れない。しかし、わたしの記憶からはその言葉は完全に消え去っている。
この世のこと, コロナウイルス, 健康, 日記 コレステロール、スタチン、スパイク蛋白質、ナットウキナーゼ、ヨウ素、小林製薬、紅麹 小林製薬はただ紅麹で叩かれただけなのか 2024年4月6日 ヨウ素に抗ウイルス効果があるとのこと。 しかし、ウイルスは存在しない。 それなのにヨウ素でコロナウイルスが不活化するとは、どういうことか、わたしには分からない。コロナとは放射線の影響を受けた體の反応なのかと勘ぐってしまう。 そして今回紅麹サプリを摂取した人の健康被害が取り沙汰され、小林製薬は商品の回収に乗り出した。そして厚労省は小林製薬の製造工場に立ち入り検査。この一連の動きが速すぎると思うのはわたしだけだろうか。
日々のこと, 日記, 言葉 モルヒネ、ワクチン、膵臓癌、見舞い、逝く、鎮静剤 わたしを育ててくれた家族はみんな逝ってしまったのです 2024年3月21日 3月13日 水曜日病院に見舞いに行く。誰の部屋に入ったのか分からなかった。それほど、病人の相は変わっていた。 …
心理, 批評, 日々のこと, 言葉 下田逸郎、唄、早く抱いて、歌、火口の二人、真我、自我、電磁体 早く抱いてという詩を読んで聞いて思うこと 2024年3月14日 さて、冒頭の詩。「早く抱いて」は自我が語る言葉だと感じる。自我が真我に囁くなめらかで繊細な誘惑であり、自我の消え去るときの静寂で終わる一篇の詩であろう。ただし、これは、わたしの感じ方であって、作詞された下田逸郎さんがそういう意図で紡がれたものではないかも知れない。しかし、芸術とはそうしたものである。作者の意図しない見方を大勢の人がしてしまう。そこに一つの普遍性が生まれ、時代を超えて、人々の心に何億種もの振動を与えるのだろうと思う。