哀しき明治一代女の顛末は誰にもわからない

大好きな歌がある。

「明治一代女」
作詞:藤田 まさと
作曲:大村 能章

浮いた浮いたと 浜町河岸に
浮かれ柳のはずかしや
人目しのんで小舟を出せば
すねた夜風が 邪魔をする

怨みますまい この世の事は
仕掛け花火に似た命
もえて散る間に 舞台が変わる
まして女はなおさらに

意地も人情も浮世にゃ勝てぬ
みんなはかない水の泡沫
泣いちゃならぬと言いつつ泣いて
月にくずれる影法師


藤田 まさと氏の詞は見事です。
何度も読んでしまいます。





明治一代女について二木 紘三氏が解説されているページがある。http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-meijiichidaionna.html

以下引用。

昭和10年(1935)に日活=入江プロ映画『明治一代女』の主題歌として作られました。この映画は、川口松太郎の同名の小説に基づいています。

 日本橋浜町の待合茶屋・酔月楼の女将だった花井お梅は、明治20年(1887)6月9日の夜、大川端、すなわち隅田川のほとりで箱屋の八杉峯吉を刺殺し、無期徒刑(現行刑法の無期懲役)に処せられました。上記の映画・小説は、この事件をテーマとしています。
 箱屋は、箱に入れた三味線をもって芸者のお供をする男衆ですが、芸者置屋でのさまざまな下働きも仕事の1つです。

たちまち売れっ子芸者に

 花井お梅は元治元年(1864)、下総国(千葉県)の貧乏侍・花井専之助の娘として生まれました。慶応3年(1867)、一家は江戸に出府、お梅は、明治5年(1872)、9歳のとき、日本橋吉川町に住んでいた岡田常三郎の養女になります。

 『妖婦列伝』の著者・田村栄太郎は、おそらく食い詰めた専之助がなにがしかの金と引き替えにお梅を譲ったのだろうと推測しています。ていのいい身売りです。
 常三郎のほうでも、自分の子としてかわいがるのではなく、年頃になったら芸者に出して稼がせる目論見だったと思われます。お梅は当時すでに、彼にそう思わせるだけの容貌をしていたのでしょう。
 その証拠に、15歳で芸者になった彼女は、18歳のときにはすでに一本、すなわち置屋から独立した自前の芸者になっています。一本になるには、芸者置屋への前借金を返済しなくてはなりません。それだけ彼女が売れっ子だったということです。

 自前となったお梅は、最初は元柳町十番地で、のちに新橋日吉町に移って置屋を営むとともに、自分も芸者として座敷に出ました。
 このころ、お梅には三十三国立銀行の頭取・河村伝衛というパトロンがついていました。河村はお梅に深く入れ込んで、いわれるままに大金を出していたようです。

 20歳のとき、彼女は養父と離縁し、花井姓に戻りました。どんどん稼ぐようになったお梅を養父が手放すわけがありません。おそらく、なにがしかの手切れ金を渡して、お梅のほうから強引に離縁したのでしょう。
 お梅は、花井姓に戻るとともに、車夫になっていた実父専之助を引き取りました。

待合「酔月楼」を開業

 明治20年(1887)5月14日、お梅は貯めこんだ金を元手に、日本橋浜町に待合茶屋・酔月楼を開業します。どういうわけか、彼女はその営業鑑札の名義人を父専之助にしました。
 男の名義人のほうが世間の通りがいい、とでも専之助に言われたのかもしれません。実質的な経営者は自分だから、名義はどっちでもかまわないし、父親を名義人にすれば親孝行になる、とお梅が考えた可能性もあります。

 ところが、これがお梅の不幸の始まりでした。

 田舎育ちの堅物だった専之助は、水商売の特殊な風習がなかなか飲み込めず、しかも、士族に多い父権意識の強い人物だったようです。
 そのため、お梅の商売のしかたが気に入らず、使用人に対する態度から金の使い方まで、ことごとく文句をつけたといいます。当然、親子の間には争いが絶えませんでした。

 のちにお梅は、このころの様子を次のように語っています。これは、無期徒刑から減刑されて、15年ぶりに出獄したお梅が『国益新聞』の記者に語った回顧談の一部です。

「……私がお客の注文の物、お座敷で女中の働き方、それについて色々言うと、お前のように一人でばかり威張り散らし、勝手なことを言ったって、利きはしないって言うんです。その上、父は乱暴でした。酔月楼については、片肌を脱いでかかったのは私なのに、私が何か言うと、『酔月楼の名義人は俺だ、何事も俺がいいようにするから、かまってくれるな』と言うんです。
 私は父と衝突して、毎日のように言い合いをしましたが、親には勝てぬから、しまいには黙ってしまいますが、腹ん中の虫は納まりやしません。じりじりすると酒なのです」

 明治20年(1887)5月26日、お梅は、酒を飲んで専之助と激しく口論した末、着の身着のままで家を飛び出してしまいます。
 すると、専之助は27日の朝、突然休業の札を出すとともに、鍵をかけて、お梅を閉め出してしまいました。
 家に入れなくなったお梅は、知り合いの家を泊まり歩きながら、店を取り戻す方策をあれこれ考えます。


箱屋・八杉峯吉との関係

 ここで登場するのが事件の副主人公、箱屋の八杉峯吉です。事件当時は34歳でした。
 お梅は芸者の頃、旦那の河村伝衛から引き出した金を歌舞伎役者の沢村源之助にせっせと貢いでいました。その源之助の男衆(付き人)だったのが峯吉です。

 お梅はその頃、こんな事件を起こしています。
 源之助がある出し物で芸者の役をやることになったと聞いたお梅は、高価な衣装を新調して贈りました。ところが、源之助は、芝居が終わったあと、それを喜代治という芸者にやってしまったのです。
 それを聞いたお梅は、剃刀を逆手に源之助の家に暴れ込んだ、と当時の事情を知っている者が語っています。
 事件は警察沙汰にはなりませんでしたが、それで源之助との縁は切れました(篠田鉱造著『明治百話』)。

 衣装を別の芸者にやったとお梅に告げたのが峯吉で、そのため、男衆をクビになったという説があります。酔月楼の開業に際して彼を雇い入れたのは、お梅がそれにいくぶんかの責任を感じていたためかもしれません。
 確かないきさつはわかりませんが、とにかく峯吉の直接の主人はお梅だったはずです。

 ところが、峯吉は専之助の味方についてしまいます。前述の回顧談で、お梅は次のように語っています。

「峯吉は、私が家を飛び出したあとで、福田屋の女将さんに『金は自分が働いたように心得て、あればあるだけ使って、始末がつかない。早くいやァ馬鹿でしょう。あんな女を主人にしていた日にァ、これだけにした財産が台無しになる』って言ったんですって。何というあくたいでしょう」

 しかし、峯吉は自分に恩を感じているはずという思いがあったので、お梅は彼に相談してみようと思いつきました。

 お梅は辻待ちの人力車夫に小遣いを渡して、峯吉を呼び出そうとしましたが、彼は使いに出ていて留守でした。
 そこで、しばらく待ってみようと大川端でぶらぶらしているうちに、柳橋のほうから帰ってきた峯吉とばったり出会いました。
 お梅は、カッとなって飛び出したものの、やはり家に戻りたいが、どうしたもんだろうと彼に話しかけます。


お梅、峯吉を刺殺

 ここからいよいよ6月9日夜の犯行の場にかかるわけですが、事件を裁いた重罪裁判所の公判記録(明治20年11月8日)では、次のようになっています。

「峯吉は『父が中々立腹し居れば、急に帰る訳にも参り難ければ、兎も角懇意の者の家に行き参れ』と申し、余り無礼なりと腹立たしく、且つ恋慕の事を申掛け、『其意に従わば帰宅し得る様取扱わん』との意味合いの如くに思われしが、其懇意の者の家に行くはイヤだと申したり。何分此場合の事実は夢中にて能く覚えず。慥(たし)か峯吉に自分の右肩を突かれて打転びし際、右手にて逆に出刃包丁を執り、打つ手を払いたり、一度突きたる儘、自分は駆出せしが、峯吉も歩行(あるき)て一方に逃げ出したる様覚えたり」

 簡単に言えば、オレの女になれば父親に取りなしてやってもいいと峯吉がいった、というのです。

 しかし、これは大いに疑問です。前述したように、峯吉は近所の女将にお梅のことをくそみそにけなしています。そういう相手に恋慕していたとは、ちょっと考えられません。
 少しでも罪を軽くするために思いついたお梅の作為でしょう。ちなみに、出獄後の回顧談で、お梅は次のように語っています。

「それからってもの、毎日がくさくさして、そっちこっちと歩くうちに、色々の考えが出てくる。また峯吉が憎くなってきたんです。初めは自分だけ死のうと思いました。が、考えりゃ考えるほど、峯吉が悪い、あいつを残しておくにゃ及ばぬと、ふと胸に浮かんだのです」

 明らかに殺意をもって峯吉を呼び出しています。相談すると言いながら、出刃包丁をもっていった事実がそれを裏付けています。


各紙、派手に書き立てる

 ところが、これが新聞記事になると、なんとも派手なことになります。
 犯行から3日後の6月11日付『東京日日新聞』は、公判記録の「恋慕の事を申掛け」の部分を思いきり拡大して、次のように報道しました。『東京日日新聞』は『毎日新聞』の前身です。

「五月雨煙る大川端の闇に……白刃一閃
  花井お梅箱屋峯吉を刺す
   以前は柳橋の秀吉、新橋の小秀
    今は待合酔月の女将――年は四六の花盛り」

 という見出しに続いて、次のように書かれています。

「そもそもこの騒動のてん末はと聞きただすに、かねて此家に居る箱屋の八杉峯吉(三十四)は、主人のお梅に深く懸想し、折節言い寄る事もあるを、かかる商売とて、召使う雇人にすら愛嬌を損なわぬが第一なれば、お梅は痛くも叱り懲らさず。峯吉は、さては彼方も左(さ)ばかり意なきには非ざりけん、されど向うは世に聞こえたる古る兵(つわもの)、殊には恋の山かけて、もともと深くいい替せし情夫もあれば、一筋縄ではウンというまじ、この上は威しに掛て口説き落し、本意を達するが近道と思惟しけん」

 このあと、峯吉がお梅を手込めにしようとしたしたところ、激しく抵抗されたので、「もはやこれまで」とお梅を殺そうとしたが、もみ合っているうちに包丁が自分に刺さってしまった、という記事が続いています。

 事件とは逆の成り行きになってしまっています。
 記者はよく調べもせず、公判記録の一部から想像をふくらませて記事を作り上げたわけです。
 江戸時代の瓦版の伝統を引いたせいか、当時の新聞では、こうした記事作成法が珍しくなかったようです。


ついに歌舞伎になる

 しかし、大衆にはこうした大げさな表現が受けました。これに芝居の世界が飛びつきました。

 たとえば河竹黙阿弥(文化13~明治26年〈1816~93〉)は、こうした新聞記事に基づいて『月梅薫朧夜(つきとうめかおるおぼろよ)』という散切物(ざんぎりもの)の歌舞伎台本を書き上げました。

(下図は『やまと新聞』に載った月岡芳年の錦絵)
Oume  

江戸時代、主として町人社会の出来事や人物を題材とした浄瑠璃や歌舞伎の作品を世話物といいます。世話物のうち、明治の新風俗を題材とした芝居が散切物です。
 散切とは、明治4年(1871)に断髪令が出てから流行った男性の髪型で、明治の新風俗を象徴する言葉としてよく使われました。

『月梅薫朧夜』筋書きは次のとおり。

 待合の女将・お粂(お梅)には、丹次郎という情人がいたが、彼は女房持ちだった。そこで、父親の伝之助(専之助)や、主人思いの使用人・巳之吉(峯吉)は、再三再四、丹次郎をあきらめるように忠告した。
 なかなか思いを断ち切れないお粂だったが、ようやく彼らの意見に従って丹次郎に愛想づかしをいって別れた。
 しかし、どうしても丹次郎が忘れられないお粂は、憂さを酒で紛らすようになり、家業もおろそかになった。

 ある夜、お粂は、泥酔した末、自殺しようと思って、出刃包丁を懐に浜町河岸をさまよっていた。
 そこへ巳之吉がやってきて、お粂を立ち直らせようと忠告するが、お粂は聞く耳をもたない。とうとう言い争いになり、カッとなったお粂は、出刃包丁で巳之吉を刺し殺してしまう。

『月梅薫朧夜』は、事件の翌年の明治21年(1888)4月、浅草の中村座で初演されました。名優といわれた五世尾上菊五郎がお粂、四世尾上松助が巳之吉を演じて、大人気を博しました。

 この芝居では、丹治郎への叶わぬ恋が峯吉殺しの動機になっており、また、専之助も峯吉も、お梅のことを心配する善玉風の設定になっています。

 これは一つには、初演当時生きていた専之助への配慮からでしょう。 また、報道されたお梅の供述に嘘や誇張があることを物書きの勘で見抜いたということも考えられます。
 加害者の言い分だけが報道され、被害者側の反論がほとんど取り上げられない傾向は、昔も今も変わりません。

 しかし、こうした配慮のためか、『月梅薫朧夜』は、芝居としては単純な筋書きになりました。峯吉殺しに至るまでの説得力が弱く、劇的な盛り上がりに欠けます。

 いっぽう、昭和10年(1935)に発表された川口松太郎の小説『明治一代女』は、そうした制約がなくなったためか、筋書きが複雑になっています。

 柳橋の人気芸者・お梅は、歌舞伎役者の沢村仙枝と将来を言い交わした仲。その仙枝には、三代目沢村仙之助を襲名する話が持ち上がっている。
 襲名には大金が必要だが、梨園では傍流で有力な後ろ盾のいない仙枝は、資金が作れない。
 悩む仙枝を見て、お梅は何とか助けたいと思うが、方法がない。

 そんな折、お梅は、何かにつけ自分に張り合ってくる芸者・秀吉に「一人前の芸者が惚れた役者の襲名費用ぐらい作れなくてどうする」と嘲笑される。
 秀吉は仙枝に惚れていたが、相手にされないため、腹いせにお梅を挑発したのだ。
 激しい言い争いのなかで、お梅は「私が必ず襲名させてみせる」と啖呵を切ってしまう。

 そう言い切ったものの、金を作る当てのないお梅は、いつも自分に好意的な箱屋の巳之吉に悩みを漏らす。
 巳之吉は、「その金は自分が何とか工面する。その代わり、自分と所帯をもってほしい」と、長く心に秘めていたお梅への恋慕を明かした。追い詰められていたお梅は、ついその言葉に頷いてしまう。
 田舎へ帰った巳之吉は、先祖伝来の田畑をすべて売り払って金を作ってきた。お梅はその金を仙枝に渡し、別れを告げる。

 ところが仙枝は、「芸者からもらった手切れ金で襲名するつもりはないし、お前と別れるつもりもない」と金を突っ返した。
 お梅も、仙枝と別れられない自分の気持ちを知った。

 そうこうしているうちに、ずるずると日が経つ。いっこうに所帯をもとうとしないお梅に不信を抱いた巳之吉は、ある夜、客の座敷に出るというお梅の後をつける。しかし、お梅が向かったのは仙枝のもとだった。

 小雪の舞う浜町河岸でお梅を呼び止めた巳之吉は、その不実をなじり、夫婦約束の履行を迫った。
 お梅は、「巳之さん、すまない、お金は、必ず返すから許して」と、手を合わせ、仙枝を思い切れない心中を告白、巳之吉と世帯をもつ気がないことを白状する。
 真心を踏みにじられて逆上した巳之吉は、用意していた出刃包丁でお梅に斬りつける。もみ合ううちに、お梅はつい巳之吉を刺し殺してしまう。

 この小説は、作者自身によって劇化され、新派の代表的悲劇として、何度も上演されてきています。また、昭和10年(1935)と同30年(1955)の2度映画化されています。


お梅狂乱

 さてお梅は、明治36年(1903)4月10日、恩赦により釈放されました。40歳のときです。お梅としては芸者に戻りたかったようですが、前歴ゆえか、年齢のためか、どこの置屋からも断られたようです。

 そこで彼女が思いついたのが、汁粉屋の営業です。出獄した年の9月17日付『東京朝日新聞』に、次のような記事が掲載されました。

花井お梅が汁粉屋開業
 浅草千束町二丁目四十三番地に汁粉屋を開業せんと目論見たる花井お梅は、いよいよ一昨日許可を得て昨日早朝より開業せしに、繁昌夥多(おびただ)しく、午前八時より九時半頃までに既に八十余名の入客ありしという。

 客の多くは「噂の人物」を見に来たにすぎず、物見高い客が一巡すると、店は閑古鳥が鳴くようになりました。2年後には小間物店に転業しましたが、これもすぐに閉店しています。
 このころ、お梅はまた新聞沙汰を起こしています。

お梅狂乱
 昨暁一時半頃、花井お梅(四十二)は、狂女の如く黒髪を振り乱し、牛込区神楽坂一丁目六番地医師小島原安民氏方の門を叩き、先生は在宅かと尋るより、小島原医師は急病人ならんとて、玄関に出で来たりしに、お梅は突然同医師の胸倉を握み不実なりと叫ぶより、同医師を始め家人等は何事なるかと、大いに騒ぎ居れる処へ警官出張して、始めて花井お梅なれる事判然すると同時に、原因はお梅の私生女児が過日来病気にかかり同医師を招きしも応ぜざりしより、お梅は深く之を恨みやや精神に異常を呈し、前記の次第に及びし事と判然し、実兄を呼出して引渡されたりと」(明治38年8月14日『日本新聞』)

 この記事を読むかぎり、お梅が一方的かつ理不尽に騒ぎ立てかのような印象を受けます。
 しかし、何度頼んでも往診してくれないとなると、親として腹を立てるのは当たり前でしょう。近年、育児放棄(ネグレクト)する親が増えているそうですが、それに比べると、お梅には母性があったわけで、少しホッとします。

 ただ、普通の親は、一度往診を断られたら、ほかの医師に当たるとか、戸板か荷車に乗せて子どもを連れて行くなど、ほかの手段を講じようとします。そうしなかったところに、お梅の性格が表れています。

 これはあくまでも想像ですが、医師には往診できない理由が何かあって断ったのを、花井お梅の子どもだから断った、と勝手に思い込んで怨んだのかもしれません。

 思い込みが強く、激しやすい性格は、服役中の様子にも表れています。
 明治27年(1894)5月22日付の『読売新聞』によると、お梅は他の囚人たちとよく喧嘩口論し、獄吏にさえ食ってかかることが多かったため、たびたび独房に移されたと言います。
 また、毎年、峯吉を殺した季節になると、精神錯乱して、挙動がおかしくなるため、医師の治療を受けていたとも報じられています。

 このころから、お梅の人生は急速に下り坂になっていきます。豊島銀行頭取と自称する男にだまされて、なけなしの金をそっくり奪われたこともありました。
 医師宅怒鳴り込み事件のあとは、ドサ廻りの女役者になって「峯吉殺し」を実演して回りました。当初こそ話題になったものの、すぐに飽きられ、クビになってしまいました。

 その後、どんな人生を送ったかは明らかではありません。おそらく、医師宅怒鳴り込み事件の際に身元引受人になった実兄・花井録太郎(荒物商)の世話になっていたのではないでしょうか。

 お梅が亡くなったのは大正5年(1916)12月12日で、53歳でした。墓は港区の長谷寺にあり、戒名は「戒珠院梅顔玉英大姉」です。

引用終わり。


二木 紘三氏の解説はとても詳細ですが、わたしには納得できない思いもあります。
真実は誰にも分からないということでしょうか。
お梅自身にも分からないのではないでしょうか。





なんと、藤圭子の歌った「明治一代女」です。台詞入りです。

明治一代女/藤圭子