チャイコフスキーの言葉で思い出す「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35」

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
生誕:1840年5月7日, ロシア帝国、ヴォトキンスク
死没:1893年11月? 日, ロシア帝国、サンクトペテルブルク

「これは運命です。幸福へ到達しようとするわれわれの熱望を妨げる、あの宿命的な力です。 (中略) それはダモクレスの剣(つるぎ)のように、いつも頭上にぶら下がっていて、私たちの魂を絶えず苦しめています。それは避けることのできない、制止し難いものです。妥協して、無駄に嘆くしかありません。」
-「交響曲第4番」第1楽章の冒頭部についての説明。-

「あらゆる人生が、きびしい現実と、束の間の幸福の夢との、絶え間のない交代なのです……船着き場はありません……。海がお前を飲み込み、その深みへと連れ去らない間は、この海をさまよっていなさい」。
-「交響曲第4番」第1楽章の冒頭部についての説明。-

「多くの人々との間に乗り越え難い溝を作っていることは本当だ。それが僕の性格に、疎外感、他人への恐怖感、臆病、並外れた内気、猜疑心、ひと言で言って、僕がますます人嫌いになっていく、数知れない特徴を与えている。」
-弟への手紙の一節-

「まるで悪夢のようでした。妻とは2週間生活を共にしましたが、わたしにとって毎日毎日が言葉では言い尽くせないほどの苦しみでした。やがて慣れるだろうと考えていたことが、まったく無理だと知りました。絶望のあまり、死ぬことも考えました」
-モスクワ川に入って自殺未遂-

「誰も私以上には、あなたの全ての不幸な出来事を、共に悲しみ分かちあっているものはいないことを、永遠に覚えておいて下さい。」
―パトロンであるメック夫人への手紙-

メック婦人はチャイコフスキーに作曲依頼をしている。
「どうかわたくしに曲をひとつ書いてください。“どうにもならないあきらめ”といった感情をあらわすものを。愛とか、幸せとか、自尊心とか、人間にとってもっとも大切なものをすべて失った人の感情をあらわすものを。というのもこのような感情はあなたにもよくおわかりいただけると思うからです」

「わたしは弱い人間だが、弱いからこそ人の世の苦しみや悲しみを真剣に受け止め、それを芸術に昇華することができる。その芸術によって人々をなぐさめることができる。同じ悩みを抱える者がいると知れば、人は自分の運命にも耐えることができるだろう。」
チャイコフスキー (ひのまどか『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 チャイコフスキー』ヤマハミュージックメディア より)

以上、NHKラジオ ラジオ深夜便より抜粋した。



チャイコフスキーの死因に対しては様々な説がある。
以下Wikipedia

○レストランの生水によるコレ
前述した通りの、レストラン「ライナー」で提供された生水によるコレラでの死亡説である。死後長い間、この説が信じられてきたが、1980年に発表された後述する自殺説が定説になった。しかし、1988年に発表されたポズナンスキーの論文によってもう一度最も一般的な説となった。ポズナンスキーは、コレラ菌がサンクトペテルブルクでより大きく流行していたこと、またチャイコフスキーに感染したコレラ菌はとても弱いものだったが、彼の持病であった胃痛を和らげるための常用薬がコレラ菌を増殖させたことを主張している。1990年、ソ連の音楽雑誌に掲載された生物学者ニコライ・ブリーノフの論文においてもこの説が論じられている。

○他の原因によるコレラ
コレラの専門家バレンティン・ポコフスキー、そしてホールドンは男性との性行為によってコレラに感染した可能性があることを指摘している。この可能性が真実である証拠があるわけではないが、もしそうだった場合、ピョートル(チャイコフスキー本人)と弟モデストはこの事実を隠すために苦労しただろうとホールドンが主張している。

弟モデストは、伝記においてレストランではなく自宅の食卓にて生水を飲んでコレラに感染したと主張している。


○名誉裁判所の命令による自殺
ソ連の音楽学者、アレクサンドラ・オルロヴァがこの説を主張しており、彼女の調査による詳細が、1980年に世界的に有名な音楽辞典『ニュー・グローヴ』に取り上げられた。

チャイコフスキーは同性愛者であったが、当時の帝政ロシアでは同性愛が違法であり、極刑に処されるのが普通であった。ところがチャイコフスキーはある貴族の甥と男色関係にあった。それを知ったその貴族が激怒し、皇帝に宛てた手紙を書き、それを、チャイコフスキーの友人であり当時高い地位にあったニコライ・ヤコビに手渡した。そこでヤコビはチャイコフスキーも同じく卒業した、かつての法律学校の同級生であり、当時のロシア法曹界の重鎮たちを6名呼び、合計8名で1893年の10月31日(ユリウス暦10月19日)に名誉裁判を開いた。その結果、チャイコフスキーの名誉のために自殺を命令された。チャイコフスキーは11月1日(ユリウス暦10月20日)にオペラの打ち合わせのため、弁護士のアウグスト・ゲルゲと会っているが、この説ではここでゲルゲが自殺用の砒素系の毒薬を持ってきたことになっている。この後自ら服毒する。


チャイコフスキーについて詳しいサイトがある。
「チャイコフスキーの生涯」http://pietro.music.coocan.jp/storia/tchaikovsky_vita.html


チャイコフスキーをわたしに教えてくれたのは、NECに勤めていたSEの男性だった。彼は私にチャイコフスキーのカセットテープを貸してくれたあと、重病で寝たきりになり、生命保険会社からは死亡保険金が下りた。仏教が好きで、比叡山に登ったことを喜々として話してくれたことを思い出す。

そのカセットテープに入っていたのが、
「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35」
人生の喜怒哀楽を感じさせる曲である。

ジャズで言えば、キース・ジャレットのケルン・コンサートと同じ色をしているとわたしは思う。

ヤッシャ・ハイフェッツの演奏を聞いてみてもらいたい。

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 シカゴ交響楽団