ドッペルゲンガーと見ている私

観察者が世界を決定しているのなら、目に映るものはすべて私自身ということになる。引き寄せとか、思考の現実化とか、いろいろな説があるけれども、それらは自我を捨て去ったときに起きる現実のことである。すなわち「見ている私」が環境を引き寄せ、「見ている私」が世界を作っているということだろう。

sprash

感情の自家中毒

感情は折りに触れ、いや、常時流していかないと、心の排水口が詰まってしまい、本来自分の持っている直感力が働かなくなる。

子供の頃にあれほど綺麗だった空に感動を得ることもなくなり、頭脳でしか生きられなくなる。いまや人は古い感情の汚物を抱えて自家中毒に陥っている。

彷徨

彷徨を聴く

深夜に友達と二人で狭い道を歩いていると、向こうから長髪の薄汚れた男が歩いてきた。右手を背中の後ろに隠すようにして、こちらの様子を上目遣いに見ている。殺気というのは分かるものだ。隣の友人もその男が包丁を背中に隠していることを直観した。そして、「おまえ、そんな光り物持たんと、喧嘩もできんか!!」と一喝した。

完璧主義は自己破壊主義

この完璧主義の一面には、他人から責められるのを極端に嫌う心理が働いている。そして、頭脳明晰な人ほどこの傾向に嵌りやすい。「自分は間違っていない。」「誰にも批判される理由など残していない。」実際に、無為無策で行動することなど全くないのだ。

阿佐田哲也

阿佐田先生のお星様

阿佐田先生が亡くなってから長い年月が経ってしまったが、先生が与えてくれた博打についての 様々な横顔は今も私達の心の中で生きている。そして、それは人生というものについても同様である。麻雀放浪記で私達に夢を与え、ドサ健ばくち地獄で度肝を 抜いてくれた。

流れ星

キャンプの想い出

中学校3年の時だったろうか。キャンプファイヤーの火も消し、みんなテントで眠る頃、わたしは一人の女の子と河原で並んで寝転び、満天の星を見上げていた。流れ星がいくつもいくつも空を横切っていく。