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裏か表か。いつもfifty-fifty。カジノの深淵を覘き見る。博打に生き様を考える。バカラ、ルーレット、麻雀、そしてFX。博打と共に一生続くか弧悲の想い。独りが好きだが、独りを哀しんでばかりいる。

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日曜日の丁半博打
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    日曜日だ。手慰みに丁半博打をするとしようか。

    丁と半がでる確率は50%。確率である。確率は過去の結果に影響を受けることはない。と昔からいわれ ている。しかし現実には、丁が10回連続出たり、丁と半が交互に出続けたりする。(ルーレットでは1913年にモンテカルロで27連続『黒』が出たのが、 連続の世界記録らしい)この偏りはなんなのだろう。不思議といえば不思議だ。次に丁が出る確率とは本当に50%なのだろうか。

    もしも、「ある状況下」で丁と出る頻度が高いことが判明すれば、札を張る立場として優位性を獲得できる。丁半博打の世界で自分が優位性を保とうとすれば、過去の膨 大なデータを収集し、その偏りの傾向の検証をし続けるしかない。「ある状況下」での検証を深くするのだ。さらにその検証はあくまで客観的でなくてはならな い。人間は特異な状況を強く印象に残す傾向があるからだ。この検証を続けていると、「ある状況下」では、丁と半の出る確率は50%ではないのではないかということを感じてくる。

    50%というのは「賽子を無限数回降り続ければ、丁と半が出る回数の比率は50%に収束していく」ということだろう。

    WIKIで調べてみた。
    " 典型的な客観確率は、ある事象が起きる頻度の観測結果に基づいて、無限回繰り返した際の極限値として定義されるものであり、頻度主義といわれる。これと別 に、「無差別の原理」(どちらが多いか少ないかといった情報のない事象同士の間では同じ確率を割り振るという原理)から論理的に確率が決まるとする論理説 や、対象の持つ傾向性を「確率」と呼ぶ傾向説と呼ばれる立場も存在する。"

    確率にも色々と立場があるようだ。

    丁半博打は参加するものが貸元に手数料を支払わなければならない。江戸時代、賭博を開帳するために、町奉行の手の届かない寺社奉行管轄である寺の一室を借りて開帳したところから、寺銭という。

    土曜日曜と、相場が動かないうちにと、チャーチを穴の空くほど見続けているが、必勝法には出会わない。確率で勝つのは無理だと諦めた方がいい。
    (この文章は私が管理している別サイトの記事を一部校正して掲載したものです)

    FXの売買練習にはForex Testerしかない。絶対にお勧めする。

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    | 博打 | 15:56 | comments(0) | - | - |
    人の心はややこしや
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      プロスペクト理論はトレードする心理の中で、一番やっかいな問題だと思う。利益を早く確定したい。損失を認めたくない。この心の背景には自分は正しいという意識も潜んでいる。ある閾値までは、利益より損失を大きく感じてしまう。ある閾値を超えると「やけくそ」になる。そして、全財産をベットする暴れ者に変身する。

      *プロスペクト理論WIKI

      このことは、べつに博打に限ったことではない。人間の行動の中で随所に現れる。

      日本の野球を見ていて感じることがある。0-0の投手戦が続いている試合も終盤の7回 表になってAのチームが待望の1点を挙げる。解説者が言う「これで試合が動き始めるかも知れませんね〜」。解説者は今までの経験の中で発言しているが実に的を得たものだ。案の定、7 回の裏にAチームのピッチャーが先頭打者にフォアボールを与えてしまう。これもプロスペクト理論だ。

      0-0が続いているときは、ただ自分のピッチングをすることに専念していたピッチャーが、自分のチームが1点を取ってくれた途端に心理を揺さぶられる。「この1点を守りたい」と。1点は小さな利益だ。この小さな利益は守りたい。ピッチングは今までよりも神経質なものになり、際どいところに投げようと思うあまりに出たフォアボールだ。人間はややこしい。
       
      もしも、味方が取ってくれた点が5点だったら、この心理は働かない。ピッチャーは思う。「5点も取ってくれたんだから1点くらい取られてもいいや」その結果、相手チームを完封してしまうことになる。
       
      こうした心理はカジノのベットにおいて、負ければ賭け金を大きくするマーチンゲールという行動を容易にし、勝てば賭け金を大きするプログレッシブシステムを困難にもする。損失は認めたくない。利益は早く確定したい。
       
      人の心はややこしい。わたしの心も、ややこしい。
       


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      | 博打 | 13:13 | comments(0) | - | - |
      麻雀はいつも愉しい
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        真っ白な夏の日に麻雀をしている4人がいる。東の一局で親の倍満を和了って安心しきったあなたは、連荘することもなく、場は流れていく。しかし、手が伸びない。いい配牌をもらっても、早いリーチをかけてきた相手に対して、降りてしまう。あなた以外の3人は手負いの獅子だ。ドラが対子にでもなれば、少々無理な形でもリーチをかけて攻めてくる。あなたは一切放銃しないが、ほかの3人はリーチをかけて自莫り、追い上げに懸命になっている。南の一局の親を簡単に流されたあなたは原点を少し浮いた程度の点数にまで落ちてきている。でも、まだトップ争いはできる。しかし、攻めてくる相手に対して攻め返せな い。どうしても、その勇気が出ない。だから、手が伸びない。放銃は一度もしなかったのに、終局したとき、あなたはラスを喰っていた・・・。これはプロスペクト理論のなせる技である。利益を手放したくない、この思いが強すぎて、二の矢、三の矢が放てない。よくある話だし、自分にも心当たりが大ありだ。
        麻雀は愉しい。ネットでも打てるということで、Dora麻雀に行ってみた。わたしは関西在住なので3人麻雀のほうがいい。
         
        Dora麻雀の3人麻雀は萬子の2〜8を抜いてある。
        例えば、ドラが九萬で、親が一巡目にこれをポンしたとする。子方の考えることは色々とある。まず、考えるべきは、親の役は何だろうということ。対対和、混老頭、字牌の一役・・。などが咄嗟に思いつく。子方のすることはまず役牌を押さえ込むことだ。まず、東と三元牌は打てない。
         
        ura.jpgura.jpgura.jpgura.jpgura.jpgura.jpgura.jpgura.jpgura.jpgura.jpgman9-66-90-s-emb.pngman9-66-90-s-yoko.pngman9-66-90-s-emb.png
         
        こう言うと、「それでは和了れないじゃないか」という人が現れる。そうなのだ。ドラを一巡目に鳴いた親に対して牌を抑えて和了れなくてもいいのだ。牌を絞ることが麻雀の技術の一つだと思う。もともと全局自分が和了れるわけじゃない。相手の得点を最小限に抑え、こちらの獲得点を出来るだけ伸ばす。このことの繰り返しなのだ。リスクとリワードを考えて、一牌一牌を切るべきなのだ。

        私にとってのDora麻雀はトレードやカジノの合間の息抜きだけれど、本気で戦っている方も多数おられる。
        麻雀は愉しい。

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        国士無双を上がってみた。


        Dora麻雀はこちらから。
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        | 博打 | 19:54 | comments(0) | - | - |
        100÷0がわからない
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          子どもの頃、1÷3の意味が分からなかった。1を3つに分けるとはどういうことなのだろう。あの頃の私にとっては1は完全に1であって、その一つ下の数字は0であった。3つに分けることなど不可能なのだ。どういうことだ?1を3で割ると0の空間で粉々になってしまう。1÷3は不思議な問題だった。そして難しい問題だった。
          あの頃の私は零ということが理解できなかった。無ということは私に永遠の恐怖を与えた。今でも理解できていないのだろうと思う。100÷0とはどういうことか分からない。0÷100はどうにもこうにも理解できない。宇宙に何もないということとはどういうことかを考えると、ただただ恐怖に陥ってしまう。
           
          およそ教育の場では、 次々と難しい問題が与えられ続ける。それに正解を出すと丸印が付けられ、ときには「よくできました」と桜のスタンプを押してくれる。そんなふうに私たちは 教育というものを受け続けてきた。テストの点数が良い者がさらに難問を出してくれる中学に高校に大学に進み、完全に洗脳されて社会に送り出される。「難しいことは価値のあることだ」そしてそれを解くことはもっと価値のあることだと。
           
          洗脳されたままの人間はシステムベットでうまくいかないと、次々と新たなシステムを探し始める。そして、自分で理解できないベット方法を価値のあるものだと思いたがる。さらに、その有り難いベット方法を上手く活用できないのは、自分の勉強が足りないからだと考える。さらにさらに新しいシステムベットをいくつも組み合わせて、努力に努力を積み重ねる。まさに蛍の光窓の雪だ。求めているのは正解であり、時として、常に勝てる方法である。勉強し続ければいつか正解が得られる、そう洗脳されてきたのだから仕方がない。
           
          負ける日もある。勝つ日もある。トータルで勝てばそれでよしとするべきだ。今日、目の前の女性を落とせなくても、また、明日違う女性に巡り会える。女性に巡り会う度に声を掛けてみればいい。正解を唯一のよりどころとしていると、これができない。一人の女性に執着してしまう。ひとつのバカラテーブルで勝とうと懸命になる。執着が苦しみを生むと言ったのはお釈迦様。だけど仕方がない。そういうふうに教育を受けてきたのだから。目の前の女性と自分の関係において、正解というものを出さなければいけないのだ。

          真実は難しいところには存在しない。真実はシンプルで綺麗なところに宿っている。常に機能するシステムベットなど存在しないのだ。博打は運と見。確率的に有効なシステムベットを作り上げたら、毎日賭場に行く。そして自分のベット方法と出目がちぐはぐなときは、とっとと座を辞して、家に帰って掃除をすることだ。そしたら、また新しい明日が来るさ。

          それにしても100をゼロで割るということは、どういうことなのだろう? 今でも分からない。しかし、分かろうとは思わない。多分誰かに説明されても、それを信じることはないだろう。正解など要らない。No thank youだ。

          Baccaratはイタリア語でゼロを表すが、単純に零の意味ではなく、4と6を足したら0になった、というように一連の過程を踏む意味を含んでいる。つまり、3日間一睡もせずにゲームを続けたら一文無しになった。これもBaccaratである。

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          今日はやられたけれど、ライブバカラならエンパイアカジノしかない。

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          | 博打 | 20:51 | comments(0) | - | - |
          公営ギャンブルの明るい未来
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            近時,不況の中,競輪に限らず公営ギャンブル全体の売上が落ち込んでいる。競輪場に足を運ぶと,観客の老齢化が進んでいることに驚く。カーキ色の防寒具を着た高齢の方がマークシートを一生懸命に塗りつぶして数百円の車券を購入している。しかし,それを受け取る窓口の女性職員は受け取った用紙を機械に突っ込んで,老人が差し出した小銭と照らし合わせるだけである。機械化による恩恵は従業員だけが受けることが出来るものだったのか・・。車券を受け取った老人は寒風が吹き抜けるバンクの金網に向かって歩を進めていく。鉄火場では銭を吐き 出す側が神様ではなかったのか。その公営ギャンブルが売上と入場客の減少で困っているという。さもありなんである。

            公営ギャンブルの運営について一言。公営ギャンブルのスポーツとしての醍醐味や,配当金の魅力で客を呼べる時代は既に終わっている。公営ギャンブルは施設自体を一大エンターテイメント施設にするべきである。いくつかの都市がカジノ計画を打ち出している今日である。宿泊施設に始まり,温泉,レストラン,カジノ,シネコン,マッサージ,エステ,美容院,ブランドショップ,などを完備し,銭を吐き出して帰る客が満足感を抱いたまま帰途につくことの出来る施設作りと経営がなされなければ,公営ギャンブルは衰退の一途をたどるだろう。勿論その根本にはサービス業としての従業員の自覚が必須であることは言うまでもない。

            繁盛しているパチンコ屋に行ってみると,店員は誠に礼儀正しく,店内は綺麗であり,一声掛ければミニスカートのお姉さんがコーヒーを運んできてくれる。老舗のソープランドに行けば,男性店員が土下座で迎えてくれ,時間待ちの間は熱いお茶をすすりながら備え付けのタバコを吹かし,自宅よりも大きな画面のテレビを眺めていれば,やがて女の子がこれまた楚々とした笑顔で迎えにきてくれる。こうなれば,もはや銭金の問題ではなくなる。男の理性などたわいもないものだ。

            いっそのこと,競輪・競馬・競艇なんという枠も外してしまえばどうだ。「エンターテイメントプラザ鉄火場」である。DEEPなディズニーランドだ。この施設は全て博打に興味のない方々も利用できるのが大前提だ。もちろん入場料などというものは取らない。地下1階に24時間営業のカジノ、地下2〜5階までを駐車場にし、1階はエントランスと美術館、喫茶店、中庭に自然庭園を造り、循環式の小川まで施工する。完全な人口自然を実現し たこの庭園では初夏にもなると源氏蛍が乱舞する。2階はショッピング街にレストラン、エステや、美容院などもここに完備する。欲にまみれた頭脳をリフレッシュするために、そして一般の方がいつでも利用できるために、こうした施設が不可欠だ。3階に屋内競輪場を設置、4階はシネコン、5階以上は宿泊施設と温泉だ。もちろん誰でも利用できる。博打好きのサラリーマンの出張にはうってつけだ。建物の南側には競馬場がそのターフを輝かせ,コース脇には10台の風力発電機。この発電機で施設の電力を賄う。東の入り江では競艇レースが行われ、モンキーターンに歓声を上げる。夕刻からは屋内のバンクでナイター車券をひねる。疲れれば温泉で身体を癒し,自分の部屋で仮眠を貪る。深夜の目覚めには,ルームサービスを頼み,スクランブルエッグとサラダにフランスパンを付けて貰い,大企業が作るマーガリンにはご遠慮願い,帝国ホテルのピーナッツクリームを注文する。コーヒーはハワイコナか、ビターなエスプレッソ。健康マニアの方は青汁も添えてもらえばいい。ベッド脇のPHSを使えばデリバリーヘルスも呼べるが、博打に女は禁物か。プラズマテレビをつければ,競輪競馬競艇の出目予想,そしてルーレット,ブラックジャック,麻雀,バカラなどの実況中継。見ているうちに博徒の虫が蠢き出す。時間の感覚など既に麻痺しているであろう。部屋のシャワーを頭からかぶり、気付けにコロンをふりかけ、ドアを開けて廊下に出たときには既に肩で風を切らんかなの気迫に満ちあふれている。

            愉しいかな。愉しからんや。

             

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            | 博打 | 12:06 | comments(0) | - | - |
            夢は叶わない
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              トレードの世界では95パーセントが退場していく話をよく聞く。このことが真実かどうかは知らないけれど、この話を聞く度に、「夢は必ず叶う」という言葉を思い出す。夢は叶わない。95パーセント以上の確率で叶わない。どんな望みを持っているかは知らないが、あなたがそれを「夢」と 思っている限り叶わない。この世は、夢破れて去っていった人ばかりと言っても過言ではない。
              私たちは子どもの時から教育という名の下で洗脳されている。さらにテレビや新聞などにも冒されている。お金持ちは汚いことをしている、というのは水戸黄門の昔から植え付けられている先入観だ。だから、わたしたちの潜在意識の中には、お金を汚いものと意識している部分がある。
               
              「正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。」
              そう、アインシュタインは言ったという。
               
              社会に出れば、常識というものを強要される。はじめは反発していた新入社員が、数年間会社で勤めていると、ある日、自らが新入社員に対してその常識を植え付 けている役を演じていることも珍しくない。いつの間にか、社会は甘くないという常識をねじ込まれるが、社会は甘くないという人たちは、往々にして、長いものに巻かれて安穏としている。甘くないと洗脳された新人はせっせと無給の時間外労働をして、愚痴は言うがどこかで納得している。
               
              みんなが正しいと言うことは疑ってみるべきだ。正誤を判断しているのは、やはり洗脳された脳なのだから。
               
              私たちの行動や発想は洗脳された脳でがんじがらめにされている。夢は夢である限り永遠に叶わない。大切なのは、一切の教育を忘れ、常識を振り払い、自分の未来を自分で決めてしまうことだ。それがどんなに現実離れしたものであろうと構わない。決めた未来が現実化するのが当然だと信じ込むのだ。そのためには正誤善悪を判断しない心が必要になる。正誤善悪を判断している限り洗脳は解けない。
               
              そして、行動することだ。行動していれば、色々なことが起きるが、それらを決して陳腐な知識で判断せずに受け入れてしまおう。分別など必要ない。自分で決めたことが必ず実現するかどうかは保証しないが、愉しい人生になることは間違いないだろう。
              それ以上の何をも望むことはない。



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              | 博打 | 16:01 | comments(0) | - | - |
              シュレディンガーの猫と博打
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                量子力学を語るときに真っ先に持ち出されるのが「シュレーディンガーの猫」だ。
                " まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質のラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生 装置を1台入れておく。もし、箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作 動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る。一定時間経過後、果たし て猫は生きているか死んでいるか。
                この系において、猫の生死はアルファ粒子が出たかどうかのみにより決定すると仮定する。そして、アルファ粒子は原子核のアルファ崩壊にともなって放出される。このとき、例えば箱に入れた ラジウムが1時間以内にアルファ崩壊してアルファ粒子が放出される確率は50%だとする。この箱の蓋を閉めてから1時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が 生きている確率は50%、死んでいる確率も50%である。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなけ ればならない。" wikipediaより抜粋。
                 
                つまり、箱の中の猫の生死は箱を開けて。観測者が観測するまで決定されないということだ。私はこれを信じている。観測者が存在して初めて宇宙が決定されると思っている。
                 
                カジノでバカラをしているとしよう。プレイヤーにベットしたあなたは「9」を配られた。そして、ディーラーが次のカードを無表情であなたの前に投げ出す。しかし、そのカードは裏返しになっているので思惑通りの絵札なのか、残念なことにクラブの2なのか、誰にも分からない。観測するのはあなただ。あなたがそのカードを確認するまで勝負は決定しない。シボリは儀式ではない。宇宙を成立させるための乾坤一擲なのだ。
                 
                これには反論も多いだろうと思う。2枚目のカードが配られた瞬間に勝負は決まっているという人もいるだろうし、そもそも、ディーラーの配るカードがシューにセットされた瞬間に未来の勝負は決定しているという人までいるかも知れない。
                 
                でも、わたしは経験則でこれを信じている。"生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっている"という状態を支持する。精神状況が乱れに乱れた状態で私の周りに出現する世界と、普段から節制を重ね安定した心持ちで見渡す世界とは全く違うことを私はいつも感じている。この時の観測者は私だ。観測者の 私の状況によって空の色まで違うものになってしまうのだ。さらに、私が観測する世界と、あなたが観測する世界には微妙なズレがあるとも思っている。
                 
                博徒たちと麻雀卓を囲んでいるとしよう。親から順番に1牌ずつ自莫っていく。誰も他人の代わりに自莫ったりはしない。自分の牌は自分が自莫る。そして、リー チをかけたあなたが和了したとすると、裏ドラを観測するのはあなただ。こういう一種の鉄火場では、卓を囲んだ4人がそれぞれに観測者が世界を作り出すことを知っているように思える。したがって、他の観測者の障害になることは避ける。それがマナーだ。間違っても、あなたの裏ドラを他人が裏返してみせることなどあり得ない。博徒は観測者が現実を決定するということに尊厳さえ抱いているかのようだ。もしも、あなた以外の誰かが和了したのに、あなたが山に手を伸ばして裏ドラを開示したりすると、昔ならその場で刺されるかも知れない。和了した者にのみ権利が与えられる裏ドラを観測するという行為に対して、あなたは、所謂、「アヤをつけた」のである。
                 
                「シュレーディンガーの猫」について考えていると、思いは果てしなく広がり、言葉では説明できなくなってしまう。
                シボリが好きなら、エンパイアカジノのライブで韓国に行けばいい。
                 
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                | 博打 | 13:27 | comments(0) | - | - |