電話のベルが鳴る。電話のベルが鳴る。

いつのことだっただろう。

昼下がりに電話のベルが鳴った。

「私を縛ってくれませんか」

知らない女性だった。

強い日差しが少し傾きかけている。




その日の夜、私は彼女とモーテルに行った。

彼女はセーラー服を着ていた。

抜けるように白い肌は私の手に纏わりつき、縄で拘束された乳房は赤く染まったまま黙していた。

私は何もしなかった。ただ、縛られた彼女の心を眺めていた。


やおら、股間に手を差し伸べただけで、柔らかな液体が私の指を濡らした。

縄を絞り上げるだけで、彼女は何度も身体を震わせて、息をつまらせた。

拘束された彼女は美しかった。

すでに言葉を超えていた。

長い髪を何度も飽かず撫でた。




翌日、電話のベルが鳴る。

その日は病院に行かなければいけない日だった。夜は人と会う約束をしていた。

その後電話のベルは鳴らなくなった。



10日ほどして、男性から電話がかかってきた。

街の喫茶店で会った。私と同年配の男性だった。

娘の初七日を済ませて、遺品の整理をしていたら、日記が見つかったという。彼は私に日記を開いて見せた。日記の最後には私の電話番号が書かれていた。そしてセーラー服を着た彼女の写真。

彼女は病のため2ヶ月ほど入院していたらしい。それが急な容体の悪化のため、息を引き取ったという。

彼はその写真を私に差し出した。形見にもらってくれと言う。




夏の夜の風をいっぱいに受けながら、わたしは車を走らせていた。

彼女は外泊はおろか、外出さえも許されていなかった。

上着の内ポケットに入れた彼女の写真。

終わることのない道。

頭の中で電話のベルが鳴る。

そして、電話のベルが鳴る。


 
 

女達へ

たどたどしく歩いてきた女へ。男に愛されたい女へ。美しくならんかなの女へ。いつまで同じところで佇んでいる。人生は突然に終わってしまうものだ。その 真実をあざ笑うか。その真実を阿呆が天空を見上げるがごとくに大口を開いてただ待つか。その真実を老いさらばえた似非仏教徒のごとくに寝て待つか。

自立し たい女へ。愛したい女へ。感じたい女へ。自分を律する心もて男を愛するがいい。己に厳しくあれ。常に険しい道を選べ。生殖のために言い寄る男を薙ぎ払え。 愛したければ。悩むがいい。反芻するがいい。毎日自分の裸体を鏡に向けてさらけ出し、乳房をわしづかみにするがいい。

されば秘す。ならば秘す。秘すれば凛 とした心と発光するかの脊椎が花を開かせる。愛することは律することと知らず、巣を空しくした女郎蜘蛛の数知れず。美しくあれ、さらに美しくあれ、律することを 知る男は美をも理解するだろう。

感性を解き放て。倫理に背を向けているくせに、知らず倫理で三段論法を展開してしまう怠惰な知性を呪うがいい。感性はエネルギー を生み出し、行動は時を止めない。男にいつまで待てという?男を絶望の縁へと道案内するか。その道なら知っている。男が歩いてきた道だからだ。振り返れば そこにある。

目を伏せる女へ。愛を忘れた女へ。千人の男達が待っている。安きに流れるな。謎を知りたければ太古魚に訊け。不思議なことはない。全てが金色 の連鎖によって成立している。未来を知りたければ、這いつくばれ。這いつくばりながら進むがいい。未来を言い当てようとして何万羽の烏が風に散ったか。唇 を噛め。厭うな。生きることとは愛することである。愛するとは美しくなることである。

みどり

 そのころ私が馴染みにしていた一件の旅館がある。「美幸」という名前で、夕方になると客引きの中年女が、食堂にあるような丸椅子を玄関の前に出して団扇をあおいでいるような、いわゆる赤線地帯の旅館である。何故か昔から赤線は川沿いと相場が決まっているのだが、「美幸」も幅70メートルほどの大きな川の堤に建っている。赤線というのは、戦後役所が売春宿の建設されている地域の地図を赤い線で囲ったから、赤線というらしい。ちなみに私の住んでいるところでは青線というのもある。    


 私はもう十年を越える「美幸」の馴染みで、客引きの中年女とも仲がよかった。女は一応女将と呼ばれていたが、座ったスカートの裾から団扇で風を送っている様は、とても女将と呼べるものではなかった。


 ある夏の日、夕闇が東の空から西の夕焼けを潰しにかかろうとする頃、私が車を静かに女将の前に停めると、女将が助手席の窓から首を突っ込んでにやりと笑う。 「暑いね」
 私がとりとめもない言葉を吐くと、女将は故意に不機嫌な顔を作り、
「あんた、夏だから暑いに決まっとる」
と言う。    
 この女将は京都の生まれだというが、言葉を聞いていると九州やら関西やら分からないところがある。それに加えて一挙手一投足がいかにも芝居じみている。だが私は、それが女将の憎めないところであると思っていた。
「それよりねあんた、ええ子がはいっとるから上がっていきや」
 そういうと女将は私の車の助手席の上で相好を崩した。
「若い子か」
「そうよ。はたちはたち。」
  女将はいかにも嬉しそうに言う。それはまあ、売れっ子が出来れば、女将も儲かるわけだから若い女の子が入って悪い気はしないだろう。
「初めてなんやから、ちょっと教えてあげてえや」
断っておくが、私は女衒ではない。教えてやることなんか何もないのだが、そこがまた女将のうまいところだと、心の中で苦笑いした。

 
「失礼します」
と言って、部屋に入ってきた女は自分のことを”みどり”と名乗った。 二の腕が抜けるように白い女だった。まだ少女の香りをそこかしこに残している。少し伸ばした漆黒の髪は周りに艶を放っている。
 ベッドの中で首筋に舌を這わせると、辛そうに躰を捩り、昂まってくるとまっすぐに伸びた脚を私の躰に巻き付けるようにしてくる。私は、息を荒げる彼女の赤い唇に唇を近づけてみた。すると彼女の方から舌を求めてきた。この時点でとうとう私も、のぼせ上がったただの男に成り下がってしまった。しかし、唇だけは許してはいけないなどと玄人ぶった忠告をするべきかどうか、血が上った頭の中で私は考えていた。細いウェストを抱え、乳房を口に含みながら、私はみどりに溺れていった。


 皺だらけになった白いシーツの上で、みどりは自分が北海道の生まれであることや、家出をしてきたことなどをとりとめもなく喋った。私は少し息を弾ませながら、ただ女の話を聞いていた。どうでもいいような疲労感が指先から力を失わせている。どこか遠くで犬が吠えているのが聞こえる。そんな間延びした時間は居心地のよいものであったが、ベッドサイドの電話がそんな空間を簡単に裂いた。タイムアウトだ。みどりは急いで下着と白いTシャツを着て、細長いジーンズをするりと腰までたぐりあげた。
「また来てね。お願い」
 そう言いながら部屋を出ようとするみどりに私は声を掛けた。
「ちょっと待て」
 私は、客が服を着て部屋を出るまできちんと待っているように、みどりに言い聞かせた。そしてそれが自分の稼ぎにも繋がることも付け加えた。みどりはそんな私の意見に悪びれもせず、「はい」と言って私が服を着るのを正座したままじっと待っていた。少しくらい部屋を出るのが遅くなっても女将は機嫌を悪くすることはないだろう。それだけ私はこの旅館に通い詰めていた。


 私はそれから数回みどりの相手をした。いちいち客に気を遣ってもいられないだろうからと思い、旅館が店仕舞いをする小一時間ほど前に上がり、最後の客としてみどりを買い占めた。みどりもそれを知っていて、私の前では無防備だった。達しそうになるときに激しく舌を吸ってやると、しなやかな腰を突き上げながら小刻みにせつない痙攣を繰り返した。しかし、みどりが疲れた様子をしているときには、私は情交を求めなかった。そして、素っ裸のみどりを私の腕枕で眠らせてやった。素直な女だと私は思っていた。


 夏も終わりにさしかかる頃、私の体調は崩れた。毎日微熱が続き、息をするのさえ億劫に感じられることもあった。私はほとんど一日中自宅のベッドの上で暮らした。夕方になるとヒグラシが鳴き、隣家で水撒きをする音が聞こえる。医者は肝臓が少し弱っているからと、私の静脈にミノファーゲンを打ち、ビタミン剤と漢方薬を調剤した。いくつかの永い夜をやり過ごすうちに私はいくつもの悪い夢に苛まれた。大きな蜘蛛が巣を張り私を待ち構えている。私は当然抗おうとするが、それもかなわず蜘蛛の巣に吸い寄せられるように堕ちていく。目を覚ますと決まって熱が上がっていた。
 そんな症状も次第に薄らいできたある夜、幸子が電話を掛けてきた。幸子は旅館「美幸」で私が10年来第一の馴染みにしている女だ。
「獏さん、元気?」  
 懐かしい声だ。
「みどりちゃんが心配してるよ」    
 幸子の言葉の語尾が僅かに拗ねている。みどりが店に来てからも私はみどりばかりでなく、幸子の客にもなっていた。それに幸子とは付き合ってきた時間の長さが違う。私とはもう肌が触れただけでお互いの気持ちが分かるかと思えるほどの仲である。その上、幸子は性格もさっぱりとした女である。抱きあえば体も心も溶け合うほどお互いに信頼している。
 私は体調が戻りつつあることを幸子に告げ、近々店に行くからと付け加えた。少し開けてある窓から秋の匂いがする夜風が吹き込んできた。気がつけば、 私はいつも独りだった。 


 翌日、久しぶりに外出した私はデパートの地下で出来合いの惣菜を吟味していた。少し変わった物が食べたくなったので、わざわざタクシーを呼んで買い物に来たのだ。しかし、急にこのような人混みの中にやってくると平衡感覚を失ってしまうような感覚に襲われる。そんな時不意に誰かに肩を二度叩かれた。振り向いてみるとそこにみどりが立っていた。
「会っちゃった」
 満面に笑みを浮かべて、切れ長の目がいっそう細くなっている。
「ちょっと付き合ってくれませんか?」
そう言うと、みどりは私の右手にぶら下がったデパートの袋を奪い取り、私の手を引いてエスカレーターの方へ向かった。
「獏さんが見えないからみんなで心配していたの。でも、よかった。こんな所で会える なんてなんか得した気分。」
エスカレーターで腕を組んだまま並んでみると、みどりは思ったよりも小柄に見えた。頭のてっぺんが丁度私の肩の位置にある。みどりは化粧品売場で私にオーデコロンを選ばせ、その上の階で淡いブルーのTシャツを一枚買った。そして、疲れてきた私をデパートの中のコーヒーショップに座らせ、自分はレモンの入ったアイスティーを頼み、私にはブラックの熱いコーヒーを差し出した。
「いつか、コーヒーはブラックしか飲まない、って言ってたでしょ」
 私はみどりにそんなことを話した記憶はなかったのだが、私が話す以外にみどりが知っているはずもない。久しぶりに外で飲むコーヒーはどこか昔の味がする。みどりは紙袋から取り出したオーデコロンを手首に少し付けて大きく吸い込んでいる。
「いい匂い」
「だね」    
 私はみどりの手首を取ってそっと鼻に近づけた。そして急にみどりを抱きたくなった。掴んだ手首の白さがみどりの裸体を喚起する。私はみどりの手首をそっと唇でなぞった。みどりは肩をすくませて小さな声を漏らす。私はみどりの手を放し、カップの底に残ったコーヒーを啜った。みどりもアイスティーを少し口に含んで転がすように飲み込んだ。十坪ほどのコーヒーショップは客の出入りも激しく、黒いタイトスカートをはいたウェイトレスがきびきびと仕事をこなしている。
「獏さんは結婚しないの?」
「別に決めているわけじゃないよ。でも一度失敗してるからね」
「失敗したから、嫌なの?」
「嫌じゃないさ。ただ縁がないんだな。男と女が同じ生活を共有するなんていうことは、別に考えてそうするのではなくて、知らないうちにそうなっているっていうものだからね。だけど最近は知らないうちにそうならないんだよ」
「ふーん。解るような気もする」  
 みどりは唇を尖らせて呟き、ウェイトレスは冷たい水を私のグラスに注いで踵を返す。ふたたび軽微なめまいが私の意識を揺らせた。

 その日私はみどりの運転する白いミニクーパーに乗せてもらって家まで辿り着いた。小さなドアから降りるときに、一言「上がっていくか」とでも声を掛ければ、私はきっとみどりとなし崩しに暮らすことになっただろう。しかし、頭では考えていながらその一言がどうにも言葉にならなかった。そして私はその事を、みどりへの愛の証にするつもりもない。ただ、その一言が言えない自分を後日腸が捻り切れんばかりに憎んだ。

 みどりが結婚したのはそれから三ヶ月後のことだった。相手は小さな建設会社を興したばかりの男で、「美幸」の客の一人だった。結婚式は身内だけで行われたが、北海道にいるみどりの両親は姿を見せなかったらしい。その男は真面目でよく働き、大工の見習いから始めて少しずつお金を貯めてようやく人を雇えるまでになったということだ。私はその事を幸子の膝枕の上で聞いていた。
「聞いてもいい?」
 幸子は私の額にかかった髪を子供をあやすように撫で付けている。
「何故、みどりちゃんと一緒にならなかったの。好きだったんでしょ」
私は答えに窮した。だから黙っていた。幸子はそんな私の髪を撫で付けることを止めようとはしなかったが、それ以上何も語ろうともしなかった。小さく開けた窓から凍てついた星空が見える。もうとっくに冬が来ていた。部屋の隅の電気ストーブが哀しかった。


 しかし、みどりの幸せは永くは続かなかった。結婚して間もなく肺癌が発見されたのだ。大学の付属病院で何度も検査が行われたが、既に手術の出来る状態ではなかった。春が来る頃には、みどりは酸素ボンベを放せない状態になった。昼間は幸子が看病に通い、夜は亭主が付き添った。私は逐一を幸子から聞いていたが何もできなかった。ただ、短い手紙を幸子に託しただけだった。みどりはその手紙を見てとても喜んでいたという。そうして、夏を待たずにみどりは逝ってしまった。葬儀は行われなかった。みどりの両親もついにやってこなかった。亭主とその両親と幸子だけで見送ったという。


 数日後、私はデパートの化粧品売場に出かけた。そしていつかみどりが買ったオーデコロンの小瓶を求めた。店員は以前の女性ではなく、背が高く髪の長い女だった。くたびれた背広姿で現れた私を胡散臭そうに眺め、オーデコロンを包んだ袋を親指と人差し指でつまみ、私の前のショーケースの上にコトリと音を立てて置いた。その態度に私の感情が暴発した。目の前の店員を大声で怒鳴りつけると、上司の女が飛んできた。店員は顔を蒼白にして、立ちつくしている。このデパートへ入ったときからずっと、去年偶然出会った時のみどりの笑顔が私を悩ませていた。上司の女は私を応接室に案内し、コーヒーを出して何度も頭を下げた。彼女は私とみどりのことを覚えていた。私は自分でも訳の分からないうちに今までのみどりとのことや、一緒にオーデコロンを買ったこと、そしてみどりが死んでしまったことまで、一気にまくし立てた。


 悔しかった。世の中の色々なことが一見不条理のように見えて実は整然として連なっているという事実が胸を切り裂くほどの痛みを私に与える。その中に私がいてみどりもいて、全ての事象が時間を超えて流転していく。その上に、愛情が重なり、哀切が重なり、耐えきれない思いとして私の口から次々と吐き出されていくのだ。とりわけ、私がみどりの最期を看取る立場になり得なかったことが、大きなわだかまりとして感情の高波を導いてくる。上司が下げ続ける頭の向こうにはもう真っ白な積乱雲が立ち昇り始めていた。


 私はその夜、ベッド一面にオーデコロンを振りかけて、湧き上がってくる愛情や後悔や悔しさ、切なさ辛さ、それらのやりきれない思いを抑えようともせずに大きな声を上げて泣き続けた。みどりが死んでしまったことは確かに辛すぎることだった。そして悲しすぎることだったが、それよりも私は自分の命の器を恨んで泣き続けたのである。

初めてのキス

まだ私が高校生だったころだ。

夕暮れも近くなった誰もいない教室で椅子に腰掛けたまま私は校庭のハンドボール部の練習を眺めていた。開けた窓から入ってくる秋風が冷たい。そんな教室に修平がやってきた。他校の生徒に麻雀でやられたという。持ち金が足りなくて,明日までに残金を支払わないといけないらしい。修平はそんなに 乱暴な打ち手ではない。どちらかというと慎重なタイプで,セオリーに忠実なところが長所でもあり短所でもある。そんな感じだから決して持ち金が足りなくな るほどの大敗を喫することは考えにくい。修平はことのいきさつを話した。

半荘5回で役満を4回和了されたという。そのうち一度は6順目で大三元ということもあったそうだ。こちらは修平と足立という男の二人。場所はK高校の不良たちが溜まり場にしている雀荘である。まともな麻雀でやられたわけではないらしい。
「明日,一緒に行ってくれないか」
「尻拭いはしないよ」
「わかってる。」
そういいながらも修平は何か言いたそうである。
「まあ,なめられたまま引き下がるわけにもいかんけどな」
先に私が言葉にした。

指先から弾かれたボールがネットを押し込む。キャプテンの森田だ。身長はそれほど高くはないのだが,ばねの効いた身体から気持ちのこもったシュートを放 つ。相変わらずディフェンスも粘り強い。森田がさらにゴールを決めて,練習が終わる。教室のガラス戸を開けて突然入ってきた紀子は、修平の姿に気づくと、 困惑した表情を私に投げかけた。
「もう練習は終わったんだろ」
紀子はハンドボール部のマネージャーをしている。
「森田を呼んできてくれんか」
私が紀子と付き合い始めてから半年がたっていた。学校中が認める関係だった。

森田はしぶとい麻雀を打つ。安易に土俵を割らないといった感じか。牌の流れに逆らわないが、それだけではなく、ここぞというときに底力を見せる。私とも 数え切れないほどの局数を打っているが、彼が大敗して席を立つのを見た覚えがない。だから、お互いの打ち筋や性格はよく知り尽くしている。パートナーには 最適だと思った。紀子に連れられてやってきた森田に私はことの顛末を話し、一戦交えてみないかと誘った。森田は泥だらけのユニフォームを着たまま相好を崩 した。真っ黒な顔から白い歯がこぼれる。

「明日は練習が休みだから好都合だ」

私もそのことは知っていた。だから紀子と新しくできたジャズ喫茶に学校の帰りに行ってみる約束をしていたのだ。紀子と校門で待ち合わせている時刻が4 時。修平がK高校の溜まり場に行くのが12時。4時間もあれば何とかなるだろうと思っていた。

気がつくといつしか校庭は夕焼けに染まっている。私は自転車 の後ろに紀子を乗せて駅に向かった。紀子は遠慮がちに私の左腰から腹部にかけて腕を回したまま黙っている。紀子は真面目な学生だった。なぜ、私のような男 と付き合ってくれるのか分からなかった。同じく真面目な男子学生に声をかけられることが多かったらしいが、学校の不良と呼ばれる男たちは私の手前絶対に紀 子を誘うようなことはしなかった。駅が近づいてきて、空の茜色が一瞬濃度を増したかと思うとすぐに闇が静かに降りてきた。電車に乗り込む紀子が小さく手を 振った。

翌日、選択科目の授業を紀子と席を隣にして受講した後、森田と私は学校を抜け出した。雀荘に着いたのが12時を少し過ぎていた。店内に入ってみて私は少しばかり驚いた。そこには十数人の学生がたむろしていた。そして誰も麻雀を打ってはいない。私達が来るのを明らかに待っていたのだろう。店内に入っていく私達を少し遠巻きにして見ている。先にきていた修平に目で招かれるまま、私達は店の一番奥の卓に座った。その卓には既に二人の男が座っていた。一人は小柄で大きな目をきっと見開いている。もう一人は浅黒い肌をした坊主頭の男だった。森田とどちらが黒いかななどと思ったが見比べてみると森田の方が数段黒かった。初めて来た店で大勢の学生に取り囲まれて店の一番奥で麻雀を打つ羽目になった。しかし、店は一階で、カーテンで日は遮られてはいるものの、いくつか窓もある。見渡すかぎり、この卓に座っている二人以上に肝の据わっていそうな輩もいなかったし、いざとなれば窓を蹴り破って逃げることくらいはできそう だった。

勝負は半荘8回と決め、ノーテン親流れ、チョンボ連荘なし、誰かがハコを割った時点で半荘終了。私は少しでも時間のかからないルールにしたかった。もちろん電動卓などない時代である。手積みだ。半荘一回目から私は飛ばした。私と森田は事前にいくつかのサインを決めていた。何も決めずに乗り込んでくる気は なかった。二人がそろって勝つ必要はなかった。どちらかが大きく勝てばそれでよかった。しかし、サインは必要なかった。不思議に手が入るのだ。親で連荘し、南場の2局で小柄の男がハコを割った。自然と私が上がり役になった。2回戦3回戦と私がトップを取ると、取り巻き連中が浮き足立った気配を見せたが、 浅黒い男が細い目で皆を制した。

その次の半荘から、風が変わった。二人の男は明らかにどちらかが山を積む時点で三元牌を集めるようになっていた。そして、 私に放銃しなくなった。私は全くあがれないまま、4回戦は浅黒い男が小さなトップを取った。気がつくと、私の後ろに修平が立っている。私の手は二人の男に 通されていると覚った。修平は私に麻雀で勝ったことがない。どういう経緯かは知らないが、この二人の男とぐるになっていてもおかしくはない。私達より先に 来ていた修平が昨日の負け金を支払ったのかどうかは知らないが、負け金の代わりが私達を連れて来てサインを出すことであっても不思議ではない。いずれにせ よ、見くびられたなと思った。だが、修平とぐるになる程度の男たちなら何の心配もない。森田の後ろにも学ランを着た背の高い男が立ったままだ。

5回戦。私は手牌のうち、2枚を左手で握り込んだまま打つことにした。そして頻繁に森田にサインを出した。相手がそういう手でくるのなら遠慮はいらないと思ってい た。時計は既に3時になろうとしていた。私は上がり続けた。森田のパスは的確だった。再び小柄な男がハコを割り、私はトップを取った。しかし、時間が気になった。このままでは4時には終わりそうもない。

6回戦第一局、小柄な男は露骨に三元牌を自分の山に積み始めた。山を積み終えて山の数を数えると一つ足りない。多分、小柄な男が2牌握っているのだ。握っているとすれば、やはり三元牌。私は森田を見た。森田も私を見ている。小柄な男が賽を振り、自分の山から配牌を取る。少し緊張した。とにかく 早く上がらなければならない。時間をかけていては親の役満が目に見えている。しかし、8順を過ぎても、どうしてもテンバらない。森田からもサインが飛んで こない。奴も手が出来ないのだ。じりじりとした時間が過ぎていき、森田が捨てた四萬に親が手を倒した。と同時に、私は手に握っていた一萬を親の捨て配の中にそっと滑らせて、代わりに1牌抜いた。親は大三元。四七萬待ちだったら、やられていた。ここで親の役萬を上がられると、こちらに来ている流れが変わりかねない。しかし、ついていたのだろう。小柄な男の待ちは一四萬だった。フリテンである。それを森田がすぐに指摘した。森田は私の左手の動きを見逃さなかったのだ。

小柄な男は椅子を蹴って立ち上がったまま、真っ赤になった顔で卓を睨み続けて動こうとはしなかった。それで勝負は終わりだった。あとは流れのままに私が上がり続け、8回戦を終えた時、既に時計は5時をまわっていた。紀子との約束は4時だった。二人の男は何も言わなかった。取り巻きの連中もどこか素知らぬ顔をしてあらぬ方を見ているだけだった。

雀荘から少し離れたバス停の前で森田と別れ、私は校門へと急いだ。あたりは既に夕闇であるが、自転車を飛ばす私の顔のそばぎりぎりを赤蜻蛉が次々とすれ違っていく。自分の息が耳に大きく聞こえた。

校門前の薄暗がりの中で紀子は立っていた。学生鞄を両手で膝の前に提げてうつむいている。私は自転車のブレーキを大きく軋ませて紀子の前に自転車を止め、浮かび上がる白い頬に口づけた。それが最初のキスだった。ジャズ喫茶に向かう自転車の後ろに乗った紀子の左腕がいつもより力を込めて私の腰を抱えていた。

嗚呼日本の散歩道

余命幾許散歩道 紅染まる川沿いで
通りすがりの別嬪が 千両箱をぶちまける
神か仏か赤とんぼ 鬼のヤンマに食べられた
クリカラモンモンドッピンシャン
鶴と亀を咲かせましョ
余命幾許散歩道 曲がり曲がりて路地裏で
三つ編垂らした小娘が 着物の裾を切り落とす
愛していたのか雨蛙 猫の尻尾に跳ねられた
クリカラモンモンドッピンシャン
鶴と亀を咲かせましョ
余命幾許散歩道 もう日も暮れる井戸端で
湯上がりほのかな姉さんが 赤い乳房落っことす
知っていたのか雲雀の子 黒い烏に襲われた
クリカラモンモンドッピンシャン
鶴と亀を咲かせましョ
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